【平成球界裏面史 近鉄編116】平成20年(2008年)、近鉄OBのジェレミー・パウエル投手は二重契約問題の渦中で苦しんでいた。最終的には最初に合意していたオリックスではなく、ソフトバンクに入団するという方向で決着。世間では臆測が飛び交ったが、真実は当事者たちのみぞ知るといった状況だった。

 当時のパウエルの言い分をまとめてみる。米国の自宅にオリックスから送られたFAXにサインをした時点で、パウエルはオリックスでプレーするという認識をしっかりもっていた。その、FAXで送られた書類はビザ申請用だということをオリックス球団の交渉担当者と共有しており「電話でのメッセージでビザの取得を早めるためのものだからサインをして送り返してほしいという音声が残っている」と話している。

 その流れで1月11日にはオリックスが早々に契約合意を発表。だが、それ以降もオリックスとの契約交渉は続いており「その話し合いの中でオリックスが球団にとって有利になるような内容に変更しようとしてきた」(パウエル)とのことだ。
 
 オリックスサイドはフィジカルチェックの後からでも、契約内容の変更ができるという条項を盛り込んでいたようだが「普通は契約合意の前にフィジカルチェックをするもんだろう。私はフィジカルチェック後に契約内容の変更があるという認識はなかった。フィジカルチェック前、すでに契約内容については綿密な話し合いが行われていたし、フィジカルチェックの結果も問題なかった。私としては早く正式契約を締結したかったが、複数回にわたってオリックスが契約内容の変更を求めてきた。私は倫理的な部分で疑問を持ち始め、最終的には私自身が交渉決裂という結論を出した」と反論している。

協議を終えたソフトバンク・角田雅司球団代表(左)とオリックス・中村勝広球団本部長(2008年1月)
協議を終えたソフトバンク・角田雅司球団代表(左)とオリックス・中村勝広球団本部長(2008年1月)

 オリックスが申し出た契約内容の変更とは何なのか。その一部は平成21年(09年)の契約に関するオプションに関連していた。フィジカルチェックが終わった時点で既に内容が決定済みだったが、バイアウト(契約買取)に関連する項目で複数回にわたって内容変更の申し入れが合った。パウエルが右膝の手術を行っていたこともあり、球団からすればリスク回避を試みたのだろうが「何度も、何度も…。交渉を続けるのは限界だと感じた」とパウエルが我慢の限界に達したわけだ。

 1月11日の契約合意の発表もパウエル本人は認識しており、背番号も自身が選択したものだった。さらに神戸市内の住居に関しても話し合いが行われていた。あとは正式契約締結までの内容を詰めている段階だった。それなのに、オリックスは球団が有利になるよう契約内容の変更にこだわった。この時点でパウエルは〝足元を見られた〟という感覚を覚えたのだ。

 パウエルは1月20日頃の段階で代理人を通じてオリックスに「これ以上交渉を続けたくない」と意思を伝えた。その後にソフトバンク側からの接触があったということなのだが、オリックスはこの状況で交渉継続可能だと考えていたのか否か。

 二重契約問題、争奪戦にまで発展しパウエルはホークスの一員となったのだが…。平成20年(08年)のパウエルの成績は2勝6敗、防御率5・29。このシーズンを最後にパウエルは日本球界から姿を消した。

マウンドで汗をぬぐうパウエル(2008年8月)
マウンドで汗をぬぐうパウエル(2008年8月)