2025年6月3日に亡くなった長嶋茂雄氏を偲び、同氏の第2次巨人監督時代を振り返った連載「ハダカの長嶋巨人」。常に話題の中心にいた「ミスター」を取り巻く人たちを含めた群像劇を、当時の東スポ巨人担当記者が振り返ります。
【ハダカの長嶋巨人#14・阿部慎之助の巻】
長嶋巨人「最後の大物ルーキー」だったのが、現巨人監督の阿部だ。
2001年のシーズンを最後に、長嶋監督は退任することになるのだが、阿部は前年のドラフト会議で1位指名されて入団した超大型捕手。周囲の期待も大きく、長嶋監督もそんな阿部に英才教育を施そうと、開幕戦からスタメン起用し、その後も周囲に何と言われようとも辛抱強く試合に出し続けたものだ。
1年目の成績は127試合に出場して打率2割2分5厘、13本塁打、44打点。ルーキーイヤーから2桁本塁打は立派なもので、守っては自慢の強肩で何度もピンチを救った。だが、いかんせん課題となったのはリードだ。この年の巨人は若松監督率いるヤクルトの後塵を拝し、2位に終わっているのだが、チーム防御率がリーグ最下位の4・45。そのすべての責任を、阿部が背負わされた格好となってしまった。
「長嶋監督はどうして阿部にこだわるんだ」
「阿部じゃあ、古田のヤクルトに勝てるわけがない」
「あの単調なリードをどうにかしろ」
周囲からは散々な言われようで、あの嵐のようなバッシングには本人もいたたまれなかったことだろう。
あとになって当時の心境を聞くことができたのは、阿部が2年目の夏ごろだったと記憶している。あの日は甲子園球場での練習日で、練習前にベンチ裏の通路でグラウンドに出る準備をしているところ。あの明るい男が、ポツリとこう漏らしたのだ。
「あのころは毎日がつらくて…。本気で〝自〇〟しようかと考えたこともあったんですよ」
長いこと野球の現場取材をしているが、選手からその「2文字」を聞いたのは、後にも先にもこれが初めてのこと。それだけ周囲のプレッシャーに追い詰められていたということで、ひとつ間違えば大変なことになるところだった。
そんな阿部が、プロの壁を乗り越え、一流選手、そして指導者として今に至るのは周知の通り。その後は後輩選手だけではなく、東スポの若手記者たちをいろいろな意味で教育してくれ、ありがたい限りだ。
巨人でなかなか若い選手が育たない、という話題になったとき「もっと辛抱強く使えばいいのに」という声をよく聞く。だが、結果が出なくても辛抱強く使うということは、それだけ使うほうも使われるほうも、風当たりが強烈になるということ。しかし、それを乗り越えることができた場合は…。何事も「育てる」というのは難しい。













