【橘高淳 審眼(21)】私が審判員として1年目、1985年の夏ごろに判定を巡ってのトラブルを経験しました。正確な日時は覚えてはいません。試合会場は甲子園でしたから阪神戦であることは確かです。対戦相手は記憶していません。
私は当該試合で一塁塁審を務めていました。試合中に一塁上の際どいクロスプレーがありました。私は自信を持ってアウトと判定。ただ、当時の現場の雰囲気としては際どい判定があると、ベンチがワーワーとなる時代ではありました。
その試合では、その後にも同じような一塁上でのクロスプレーがありました。すると阪神ベンチから暴言が聞こえてきました。その声が明確に聞こえていましたので、私は当該の選手に退場を宣告しました。これが私にとって初めての審判員としての退場宣告です。
試合後、ウエスタン・リーグとセ・リーグの富澤審判部長宛てに報告書を作成。その後、改めて富澤部長に直接、報告する機会がありました。状況説明をして退場宣告した旨を伝え、どうやら私が判定を間違えてしまったかもしれないと説明しました。
その時の富澤部長からの最初の言葉が印象的でした。まず、第一声が「おめでとう」。「(判定が)間違っていたかもしれないとか、そんなことはいい」ということでした。
その場で下したジャッジに関しては、自分で継続して勉強しないといけない。でも、大事なことはルールにのっとって暴言、暴力行為に関して退場を宣告したという事実。1年目の審判員としては勇気がいる判断であったということは事実なのだろうと思います。
当時は、なかなか退場を宣告できない空気があった時代ではありました。その試合で退場になった選手は大野久さんでした。茨城・取手二高から東洋大、日産自動車を経て84年ドラフト5位で阪神に入団してきた外野手です。足の速いスイッチヒッターでした。85年は1年目だったので、ファームでプレーしていたんでしょう。
その後、大野さんは87年から一軍に定着し、活躍されています。88年に就任した村山実監督から和田豊君(元監督)、中野佐資君との3人で「少年隊」と呼ばれた選手です。阪神の後はトレードで91年からダイエーでプレー。130試合にフル出場し42盗塁で盗塁王に輝きました。その後は中日でプレーし、中日のコーチも務めた人物です。
和田君、中野君は私にとっては同級生です。私は大卒の選手たちが入団してくるタイミングで退団してますから、同じ時期にタテジマのユニホームを着てはいません。入れ違いではあるんですが、親近感がありました。選手と審判で立場は違えど、お互いに一軍を目指して頑張っていた仲間です。
審判員としては、やたらと親しげに選手たちとお話をするわけにはいきません。ただ、一定の距離を保って人として選手たちとは接します。どうしても同級生たちとはお話しする機会が増えますね。
ちなみにNPBで運用している公認野球規則では、審判の規則適用に疑義がある場合、監督は正しい裁定への訂正を求めることができる(公認野球規則9・02(b))。そういう文章が明記されています。つまり、審判の規則適用に疑義がある場合、監督のみが正しい裁定への訂正を求めることが可能です。厳密に言えばそれ以外の立場の人が異議を申し立てた場合は退場になる可能性があります。












