【橘高淳 審眼(22)】瀬田工高時代の3年時、1980年には春夏連続で甲子園に出場。81年からは阪神タイガースの一員となり、4年間の現役生活を過ごしました。そこから審判となり、1年目に初めて退場を宣告したのも甲子園でした。何かと甲子園にはご縁があります。

 現役時代、同期の選手たちは皆、球団寮の「虎風荘」に住んでいました。寮にいる時は同期と一緒に近所で外食をするなど、ひとときのリラックスタイムを楽しみました。その寮の近くにカープが当時、遠征時の宿舎にしていた「夕立荘」という旅館があるんです。今でも甲子園大会中の高校球児の宿舎になっています。

 そこから少し浜側にコインランドリーがあって、カープの選手が洗濯物をガーッと回してて。そんな時代です。ららぽーと甲子園がまだ、阪神パークという遊園地で動物園もあった頃です。その近くにお好み焼き屋さんがあったんですよ。

 店名が「木馬」といいます。川藤幸三元OB会長がなじみにしていた店です。今でも川藤さんオリジナルの「川藤焼き」が現存しているんじゃないですかね。私はいつもモダン焼きでしたが。その店に同期の面々で夜な夜な集まったりしていました。

 そういえば同期の中に森忠仁君という投手がいました。私と同じく80年のドラフト外で千葉商高から阪神に入団してきました。打撃が良く、プロでは外野手としてプレー。187センチの長身で長打力のある選手でした。彼とは引退後も一緒に外食を共にするなど、懇意にしてもらっています。

 その森君なんですが、現在は日本プロ野球選手会の事務局長を務めているんですね。彼は一軍経験はありませんでしたが、私より2年間多く現役でユニホームを着ていました。タイガースがリーグ優勝、日本一になった85年の翌年に引退しています。その後は野球選手から証券会社に就職したり、保険代理店に勤めたりと社会人としての経験を積んでいます。

 2000年に選手会の事務局長が松原徹さんになった頃のタイミングで、彼も選手会の職員として働くようになったようです。選手会が注目されたのは何といっても04年の頃でしょう。近鉄、オリックスが合併し、10球団1リーグ制になろうかとした時期です。

 その頃は選手会会長のヤクルト・古田敦也選手、近鉄の礒部公一選手会長らとともに松原事務局長も、森君もよくテレビで見かけました。球界初のストライキが行われるなど、12球団2リーグ制の維持に一生懸命になって動いた一員です。いわゆる球界再編問題を経て選手会の役割は大きくなっていきました。

 そんな中、前事務局長の松原さんが15年にご病気のため58歳で他界。森君が事務局長に就任し、選手会をけん引しています。選手のセカンドキャリアの問題に関して活動したり、現行制度として動いている「現役ドラフト」も、選手会の活動の結果として生まれたものです。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の際には、MLBとの条件交渉も行う役目を担っています。

 私が現役で審判員を務めていた時代は、森君が12球団を回って活動しているキャンプ時期に宮崎や沖縄でも食事を共にしていました。私は審判を辞めてしまいましたが、森君には引き続き球界発展のために頑張ってもらいたいと応援しています。