【橘高淳 審眼(23)】1985年からセ・リーグ関西所属の審判員として活動を開始し、最初はウエスタン・リーグで経験を積んでいきました。一軍の試合で初めて審判を務めたのは3年目の87年、9月8日の阪神―ヤクルト(甲子園)です。左翼外審(線審)としての出場でした。これが公式記録に残されています私の初出場です。

 これから一軍で通算3001試合に出場することになります。その一歩目はかつて所属していた阪神タイガースの本拠地である甲子園でした。やはり甲子園にはご縁があります。二軍戦を中心に実戦を重ねていき、4年目の88年には一軍で二塁、三塁の塁審を経験。5年目の89年にようやく一塁塁審にたどり着きました。

 その5年目の審判員としての評価は悪くはなかったようで、6年目になる90年には一軍で球審としてデビューさせるというお話をもらってはいました。ところが、90年からセ・リーグは公式戦での審判員の配置を6人制から4人制に変更することになりました。つまり外野審判2人が廃止され、必要な人員が削減されるということです。この制度の導入とともに審判員の仕事を退いた先輩たちも存在しました。

 1試合6人を配置していた審判員が、予備審判を含めて5人で運営する体制になりました。1日にセ・リーグ3試合開催した際には最低でも15人必要という計算になりますよね。そうすると、当時の私は先輩たちを上から数えていくと18番目くらいの序列になります。内心は「来年から一軍での球審をできるんだろうか。また二軍での担当が増えるのかな」という不安を抱いていました。

 ただ、実際には6人制から4人制になり外野への打球の判定でトラブルが続く時期がありました。これはマスコミで大きく取り上げられ、審判部でも問題となりました。そうすると先輩が休養になるなどの事態が起こります。そういった影響もあり、6月には私が一軍で球審を務めるという機会が巡ってきました。

 当時の審判員のシフトは2週間単位くらいで発行されていました。それが4人制になった当初は1か月単位くらいのスパンに変更。ただ、トラブルがあって2週間単位に戻りました。実際、あまり先までシフトを出し過ぎると変更が大変になるので、そういった措置が取られました。

 初球審の舞台は広島市民球場で行われた広島―ヤクルトでした。当時の広島・山崎隆造選手がサヨナラ打を記録し、カープが勝利したことは記憶しています。打たれた投手はヤクルト・矢野和哉君でした。矢野投手は62年生まれの同級生です。兵庫・報徳学園時代は、81年ドラフトで元近鉄の金村義明君の1つ先輩に当たります。高校3年時は兵庫・滝川高から近鉄にドラフト1位指名された石本貴昭君と投げ合い、準優勝となっています。

 その後、矢野君は社会人の神戸製鋼を経てヤクルトに85年ドラフト4位で入団します。現役引退後はスカウトとしてヤクルトで活躍。後にメジャーリーガーにもなった岩村明憲選手の担当スカウトは彼ですね。

 私の3001試合出場の第一歩は、こういった経緯で動き出したわけです。