【プロレス蔵出し写真館】今から38年前の1985年(昭和60年)8月4日、付け人の蝶野正洋を従え、ハワイのワイキキビーチをランニング中のアントニオ猪木が思いがけない人物を見つけ、足を止めた。かつて、一世を風びした〝ハワイの巨象〟キング・カーチス・イヤウケアだった。

 イヤウケアは60年(昭和35年)10月、日本プロレスに初来日。11月16日に東京体育館で力道山のインターナショナル選手権にも挑戦。全日本プロレスへの来日時は160キロの巨体を誇り、毎試合のように流血して額はギザギザ。〝流血大王〟ともいわれた。

 そんなイヤウケアは引退して貸しボート屋を営んでいた。

引退して貸しボート屋を営んでいたイヤウケア(84年1月、ホノルルのワイキキビーチ)
引退して貸しボート屋を営んでいたイヤウケア(84年1月、ホノルルのワイキキビーチ)

 前日3日、ホノルルのアロハ・スタジアムで、〝超獣〟ブルーザー・ブロディとの大一番を終えた(両者リングアウト)猪木はリラックスムード。どちらともなく歩み寄り握手をかわした。日本マット、ハワイ、そして新日本プロレスに留学していた息子、ロッキー・イヤウケアの成長ぶりなどを語り合う2人(写真)。

 イヤウケアが「そういえば20数年前、ここでユーと戦ったことがあったな。覚えてるかい?」。にこやかに黙ってうなずく猪木。

 先週、東スポの連載企画【昭和~平成スター列伝】で取り上げていた、猪木の初の米国武者修行での第1戦。

 64年(昭和39年)3月11日、ホノルルのシビックオーデトリアムで、21歳の猪木はNWA認定USヘビー級王者だったイヤウケアとシングルマッチで対決し、1―1の引き分け試合を演じた。

 第2戦(3月18日)でも同所で30分1本勝負のタッグマッチで対戦。猪木のパートナーは、ずいぶん後にPWF会長を務めることになるロード・ブレアース。イヤウケアのパートナーはトシ東郷(ショーン・コネリー主演の映画「007/ゴールドフィンガー」でオッドジョブ役を演じたハロルド坂田)だった。

 東スポは東郷へ国際電話をかけ試合の模様を聞き、詳報(写真は外電のUPI)。

 猪木は躍動し、東郷にネックブリーカードロップを決め、パンチの応酬。東郷の地獄突きでピンチになるもブレアースの老獪なタッチワークに助けられ、ドロップキックで東郷とイヤウケアをロープまで吹っ飛ばした。寝技でイヤウケアと激しくもみ合って、最後はタイムアップドローに終わった、と報じている。

 メインイベンターとなった猪木とは、その後日プロで対戦している。

 久々に再会した猪木とイヤウケアは終始、にこやかに昔話に花を咲かせていた。

右からイヤウケア、マーク・ルーイン、ケビン・サリバン、ルナ・バション、マハ・シンことボブ・ループ(86年2月、フロリダ州オーランド)
右からイヤウケア、マーク・ルーイン、ケビン・サリバン、ルナ・バション、マハ・シンことボブ・ループ(86年2月、フロリダ州オーランド)

 さて、貸しボート屋に専念していると思われたイヤウケアを再び見たのは、翌86年。2月14日、米フロリダ州オーランドでゾンビ軍団(後にダンジョン・オブ・ドゥームと命名)のマーク・ルーイン、ケビン・サリバン、マハ・シン(ボブ・ループ)、女性マネジャーのルナ・バションとともに、黒い衣装に身を包んでリングに登場。存在感は抜群で、翌87年にはWWF(現WWE)にも上がることとなる。

 イヤウケアの最後の来日となったのは、89年(平成元年)7月16日の「ブロディ・メモリアルナイト」。

 イヤウケアはオーストラリア遠征でブロディと知り合い、すぐに意気投合。それ以来、師匠と慕われてきたという。

 イヤウケアは「アイツと初めて会ったときはただのフットボール上がりだった。それじゃダメだ、と教えてやったんだ。それでアイツも成功した。ブロディのような体とスタミナが欲しかった。自分がブロディの世界一のファンなんだ」と目を細めた。

 ところで、イヤウケアが来日するのは新春シリーズが多く、日本プロレス界の〝風物詩〟ともいわれた。記憶に残る名レスラーの一人だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る