〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)が、10月1日に一周忌を迎える。猪木さんが1972年3月に旗揚げした新日本プロレスは昨年に50周年を迎え、業界盟主として君臨する。だが、決して順風満帆なスタートではなかった。選手、資金が不足する苦難の中、〝猪木丸〟はどうかじを切ったのか。猪木さんの側近だった元新日本専務取締役営業本部長で、〝過激な仕掛け人〟と呼ばれた新間寿氏(88)が、新日本設立1年目の舞台裏を激白だ。
1971年12月に日本プロレスを除名となった猪木さんは、年が明けた72年1月、新日本プロレスを設立。2か月後の3月6日には、東京・大田区体育館で旗揚げ興行を開催した。
だが、メンバーは日プロから猪木さんと行動をともにした山本小鉄、木戸修、藤波辰巳(辰爾)、レフェリーのユセフ・トルコ。そしてメキシコ遠征から合流した魁勝司(北沢幹之)、柴田勝久だけ。戦力不足は否めなかった。そこで猪木さんは〝奥の手〟に出る。
東京プロレスでたもとを分かち、70年2月に引退していた豊登の復帰を画策したのだ。「新間、豊さんをリングに上げてくれ」と、さっそく豊登の生活を工面していた新間氏に依頼した。
「頼むと言っても、1円も出してくれない。私と豊さんの信頼関係で、私に口説かせれば豊さんは出るだろうという猪木さんの計算だった」
新間氏は猪木さんと妻の女優・倍賞美津子が新婚生活を送る、東京・六本木の金谷ホテルマンションに豊登を連れて行った。だが、前年11月の2人の結婚式への出席もかたくなに拒んだ豊登はなかなか首を縦に振らない。倍賞も「あなたがアントンを私に紹介したんじゃない。アントンが困っているんだから手伝って」と後押ししてくれたが…。
旗揚げの3月6日。新間氏は、豊登を大田区体育館に連れ出した。「花束贈呈だけでもやってください」とリングに上げると、ここで猪木さんが仕掛けた。
「豊さん、今日は試合をやってください」と呼びかけたのだ。5000人満員で膨れ上がった会場は大盛り上がり。サプライズ好きの猪木さんらしい行動だ。
気持ちが揺らぎ始めた豊登に、新間氏も援護射撃した。「豊さんがリングに上がってくれれば、またプロレスの会社で猪木さん、豊さんと一緒に働ける。お願いですからやってください」
「お前まで言うな」と言う豊登だったが、今度は「タイツがない」と言い出す。もともと試合のために会場を訪れたわけではないから当然だ。すると小鉄が「私のがあります!」と申し出たのだ。
タイツを借りた豊登は、その小鉄とコンビを組み、60分3本勝負のタッグ戦に出場。ジム&ジョーのドランゴ兄弟に2―1で勝利した。気を良くした猪木さんから「手伝ってくれ」と言われた新間氏は、猪木さんと豊登のマネジャーとして団体に携わることになった。
だが、旗揚げ直後の新日本は苦難の連続だった。NET(テレビ朝日)が放送を始めたのは坂口征二入団後の翌年4月のため、テレビ局の放映権料はない。集客でも苦戦し、観衆200人という会場もあった。
このピンチを救ったのが倍賞だ。時には宣伝テープの吹き込みを担当し、自ら宣伝カーに乗ることもあった。チケット販売でも大いに貢献してくれたという。
また、興行代金が足りず、豊登を応援していた不動産会社社長に新間氏と豊登が頭を下げに行ったときのこと。「たまには倍賞美津子を連れて来い。そうしたら金を貸してやるよ」と言われ、本当に倍賞が出向いてくれたこともあった。
「倍賞さんは借金するのをだいぶ助けてくれた。もちろん猪木さんも、一生懸命金集めをしてくれた。自分の会社だということで真剣になっていたからね。おんぶに抱っこはなかったよ。とにかくテレビがつくまでが大変だった」
この1年で集めた金額は2億円。当時は大卒初任給が4万円とされた時代のため、現在の金額換算でいうと10億円相当を集めたことになる。
「これがなかったら新日本は1年もたなかった」
72年10月にはジャイアント馬場も全日本プロレスを旗揚げ。猪木さんと馬場が抜けた日プロは73年に崩壊した。
こうして逆境を乗り越えた新日プロは翌年から軌道に乗り、猪木・新日本と馬場・全日本の2強時代を迎える。
「倍賞さんと新間寿で豊登を新日本プロレスに再登場させることができた。だから新日本プロレスを一流の団体にのし上げたのは、私からすればアントニオ猪木と倍賞美津子、そして豊登だった」という新間氏の言葉通り、業界盟主の礎はこうして築かれたのだ。(敬称略)















