あのとき「BI砲」に何があったのか――。4月1日は日本記念日協会が認定した「東スポの日」。東スポと言えばプロレスだ。日本プロレス界の2大巨頭、故ジャイアント馬場さん(享年61)と故アントニオ猪木さん(享年79)は良きライバルであり、兄弟のような関係だったと、多くの関係者が証言している。2人と同じ釜の飯を食った後輩はどう見ていたのか。1960~70年代の日本プロレス時代に撮影された本紙秘蔵写真をもとに、大日本プロレスのグレート小鹿会長(80)がBI砲の真実に迫る。

秘蔵写真を前に思い出を語ったグレート小鹿
秘蔵写真を前に思い出を語ったグレート小鹿

 1962年11月、20歳の小鹿は日本プロレスに入門した。60年9月にデビューした馬場さんは24歳、猪木さんは19歳だった。小鹿は67年10月から米国に遠征するため、同年5月に長野の旅館内で撮影された馬場さんと猪木さんの写真は小鹿の遠征直前の時期となる。

「このころの猪木さんは(67年1月に)東京プロレスを閉鎖したでしょ。日本テレビの社長や政界の人が骨を折って猪木さんが日本プロレスに戻って、『みんなで仲良くやってくれ』という伝達が出ていてね。だから、このころはいいムードなんですよ。だけど、派閥みたいのがつくられていたね」と振り返る。

 地方巡業では旅館内で過ごすことが多かった。食後の楽しみはもっぱら麻雀で、主なメンバーは馬場さんと豊登、芳の里社長、吉村道明。猪木さんはもっぱらユセフ・トルコ、山本小鉄らとトランプに興じていたという。その「麻雀メンバー」と「トランプメンバー」でいつしか馬場派と猪木派のようなものが形勢されつつあった。

 この空気を察した吉村から「小鹿、今日はちゃんこをやってくれ」と命じられ、巡業先の高知県内の旅館で小鹿がちゃんこを振る舞ったことがある。鍋を囲む席は2卓。風呂から先に上がった猪木さんがテレビ関係者の席に座ったが、小鹿は「猪木さん、こっちに座ってください」と馬場さんと同じ席に座らせた。

 すると2人は何ごともなかったかのように鍋を囲み、たわいもない話で盛り上がったという。「いがみ合いも何もないしね。猪木さんは『馬場コンチクショー』って思う人じゃない。2人は友達の感覚ですよ。周りの空気に惑わされたのがあったんじゃないかな」

 小鹿は70年10月に3年間の米国遠征から帰国。この年の5月には、猪木さんとロサンゼルスで朝まで飲み明かした。その場で、猪木さんは腐敗した日プロ経営陣への不満を爆発させた。

山県駅を訪れたジャイアント馬場(左)とアントニオ猪木(1971年4月10日)
山県駅を訪れたジャイアント馬場(左)とアントニオ猪木(1971年4月10日)

 71年4月に山形で撮影された2人の写真は、まさに猪木さんが団体改革に燃えていた時期。小鹿は「2人でコーヒーを飲みながら将来のことを話していたはずだよ。馬場さんも同じ考えを持っていたと思う。猪木さんから話を聞いて、最初は仲間に入っていたんだから」。

 だが、この年の暮れに猪木さんは〝クーデター〟が明るみになり、日プロから追放に。翌年、猪木さんは新日本プロレス、馬場さんは全日本プロレスを旗揚げした。袂を分かった2人は永久に交わることはなかった。

「猪木さんも馬場さんも人がいいから。トラブルを起こしてまでどうのこうのっていうのは、彼らの中にはなかったってことだな。ただ、2人が先頭に立ってやれば、若いみんなはついていったし、もっと明るいプロレス界になっていたと思う」。小鹿は静かに2枚の写真を見つめ、先輩との思い出を懐かしんだ。