元WWF(現WWE)ヘビー級王者でWWE殿堂者の“鋼鉄怪人”ことアイアン・シーク(本名コシロ・バジリ)さんが7日に死去した。81歳だった。
イラン・テヘラン出身でレスリング選手として活躍した後、1970年に米国に亡命。72年にAWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアの指導を受けてプロレスデビューした。ミネアポリス地区で活躍した後に、70年代後半から「アイアン・シーク」のリングネームを名乗り、必殺技キャメルクラッチ(ラクダ固め)と先が曲がった独特の凶器シューズを代名詞に、悪党レスラーとして全米各地で暴れまわった。
レスラーとしてのハイライトは、83年12月26日、ニューヨークのMS・Gで“ニューヨークの帝王”ことボブ・バックランドからWWFヘビー級王座を奪った一戦だろう。当時、バックランドは不動の王者として確固たる地位を築き、79年12月17日、ボビー・ダンカンとの決定戦を制して、実に4年間にわたって王座を保持していた。この一戦はWWF史上でも大番狂わせの典型として今でも語り継がれる。
実はWWFは当時、転換期にあり総帥のビンス・マクマホンはスポーツマンの典型のようなベビーフェースのバックランドに代わる王者像を求めており、シークの王座奪取はバックランドを王座から引き下ろすために組まれたという説もある。それでも“鋼鉄怪人”はワンチャンスをものにした。12月31日付本紙ではこの一戦の詳細を報じている。
『バックランドは2日前に左肩を脱臼。試合のキャンセルを訴えたが認められなかった。挑戦者のシークは薄気味悪い笑みを浮かべ「カモン、ボブ」と挑発した。シークの攻撃はパンチもキックもすべて左肩へ集中、バックランドも右腕一本でストレートを狙うが、威力は半減どころかゼロ。シークはバックランドに馬乗りになると首をガチッと決めてキャメルクラッチに入った。ピクピクッと両足をけいれんさせる王者。顔から血の気は引いてしまっている。じっとコーナーから見守っていたセコンドのアーノルド・スコーランがタオルを投入した。場内はシーンと静まり返り、2万2000人の大観衆はうつろな視線をリングに向けた。不滅の帝王バックランドが4年間の王座から転落、まさに惨劇の夜だった』(抜粋)
王座は長続きせず、翌84年1月23日に“超人”ハルク・ホーガンに敗れてわずか28日で王座を失う。ホーガンは88年2月5日にアンドレ・ザ・ジャイアントに敗れるまで、4年間にわたって王座を保持した(アンドレは王座を即返上)。その後は筋肉質のマッチョマンタイプの王者が主流となった。シークの勝利が転換期となったわけだ。
その後も悪役を貫く姿はプライドに満ちており「ザ・ロック」こと米人気俳優ドウェイン・ジョンソンも、訃報に際して自身のインスタグラムに動画を投稿して追悼。尊敬の念を表した。
グレート小鹿大日本プロレス会長は「オイラたちが米国遠征した時代は人種差別がまだひどい時代で、リング上で警官にピストルを突きつけられたこともある。マスカラスとの抗争ではナイフを持ったファンが自宅まで押しかけてきて家族が泣いてバスルームに隠れるほどだった。米国で敵国の悪役に徹するには本当に命がけだったんだ」と証言する。
79年11月には「イランアメリカ大使館人質事件」も起き、シークへの憎悪も倍増した。命の危険にさらされる場面は生涯に何度もあったという。それでも最後まで我が道を貫き通したプロ中のプロだった。 (敬称略)















