ノアの創設者・故三沢光晴さん(享年46)が2009年6月13日広島大会の試合中に事故で亡くなってから早くも14年が経過し、今年も命日が近づいてきた。ノアは6月を「メモリアル三沢光晴2023」と題したメモリアル月間として、新作グッズ発売やイベントなどの企画で故人をしのんでいる。

 三沢が亡くなった試合は本紙1面で報じられたが、記者は死の4日前、最後に三沢と交わした会話を「三沢の遺言」として記事を書いた。6月9日、静岡・沼津大会の試合前だった。三沢は明らかに疲弊しており「もうやめたい。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。やめたい…」。やめたいというのは飲んだ時の口癖だったが、この日ばかりは切迫感が違った。魂からの切なる叫びのようだった

 見るからにコンディションが悪そうだった。後にスタッフに聞いたのだが、このシリーズ、三沢は調子が悪く、試合前に会場で体を動かしていたのはこの日が2度目で、記者とリングサイドで会話する光景を見て「えっ」と思ったという。当時、記者はデスクだったのでこのシリーズは沼津しか取材していない。最後の会話を神様が許してくれたとしか思えない。

「少し休めば…」という記者の言葉には「それはできないね。一度休んだら気持ちが切れて『もう1回』って気持ちが出てこなくなる。休む時はやめるときだよ」と語った。さらには「若い選手が出てきてくれれば、俺的には負けたって決して悔しいとは思わない。その上でやめられればね」とぎこちない笑顔を見せた。記者はひそかに後日用に「三沢引退決意」の記事を用意し、故仲田龍GMも死の翌々日に「沼津で引退の相談をした」と語っている。だがそれらはすべてかなわず4日後に三沢は帰らぬ人となった。

雪崩式エメラルドフロウジョンで愛弟子・丸藤をKO
雪崩式エメラルドフロウジョンで愛弟子・丸藤をKO

 三沢が最後の輝きを放っていたのは、死からたった2年前の06~07年だったと思う。06年12月10日の日本武道館、三沢は愛弟子の丸藤正道からGHCヘビー級王座を3年9か月ぶりに奪還。実に44歳にして王者となった。これが三沢最後の同王座戴冠となり、本紙は1面で決戦を報じている。

『三沢は開始から爆弾の左ヒザを集中攻撃されて土俵際に追い込まれる。15分からはピンチの連続でエプロンからのタイガードライバーは不知火で返され、花道でも不知火を被弾。もう余力はない。だがほんのわずかな残り火で三沢は奇跡の大逆転を演じた。最上段で不知火を返すと、ハーフネルソン式の猛虎原爆固めを解禁。「タイガースープレックス85」と呼ばれた幻の大技だ。この一撃が眠っていた三沢のひらめきを呼び起こした。丸藤が不知火を狙うと、三沢はこれを受け止めてエメラルド弾。最上段から王者を豪快に投げ捨てて3カウントを奪った。三沢は「(腎臓がんで闘病中の)小橋が戻ってくるまで頑張る。キツイけどね」と語った』(抜粋)

 三沢はここから快進撃を続け08年3月まで実に7度の防衛を記録。07年11月にはニューヨークまで遠征してKENTAを退けV7に成功した。そして本当に小橋が復帰戦(07年12月2日武道館=三沢、秋山組対小橋、高山組)を行うまでベルトを守り抜いて“約束”を守った。三沢はこの奮闘が評価され、45歳6か月で初めて東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」MVPを受賞。小橋復帰戦もベストバウトを獲得して2冠王に輝いた。自らの肉体を呈してまで団体を守った責任感の塊のような男が見せた最後の輝きだった。

「人生とプロレスは何が起きるか分からないから面白い。だからやり遂げた時に達成感があるんだよね」と受賞の報を聞いた三沢はうれしそうに語った。今でも「スパルタンX」を聴くと胸が詰まる人は多いだろう。何年たとうが、三沢の雄姿はファンやレスラー、関係者の胸に永遠に永遠に刻まれるはずだ。(敬称略)