全日本プロレス、ノアで活躍した三沢光晴さん(享年46)の命日を13日に迎え、後輩でありライバルでもあった鉄人・小橋建太(55)が哀悼の意を表した。
2009年6月13日のノア広島大会。三沢さんは試合中のアクシデントで帰らぬ人になった。あれから13年。毎年6月になると、小橋は特別な思いに駆られる。
「この時期になると思い出すよね。鶴田さんが(2000年)5月13に亡くなって、三沢さんが6月13日。三沢さんは6月18日が誕生日だったんだけど、迎えることができなかった。思い出さないわけがないよ」
これまで何度も三沢さんとの思い出を振り返ってきた。改めて思うのは「身近なチャンピオンだった」ということ。小橋は馬場さんの付け人をしたことがあるが、当時の馬場さんはベルトを巻いていなかった。チャンピオン像とは何なのかを模索する中、先頭に立って示してくれたのが三沢さんだったという。
小橋が初めてチャンピオンになったのが、当時2代目タイガーマスクだった三沢さんと1990年4月9日の岡山大会で獲得したアジアタッグだ。だが、約1か月後の5月14日東京体育館大会で、2代目タイガーはマスクを脱ぎ、本名の三沢光晴となった。
その3日後に広島で行われたジョニー・エース&デイビーボーイ・スミスとのアジアタッグ初防衛戦は、タイガーマスクのコスチュームを着用した素顔の三沢さんとのコンビで勝利。しかしその後、思いもよらぬ形で小橋初のチャンピオン時代は幕を閉じた。
「三沢さんが『アジアタッグを返上して上を狙う』と。俺としては返上したくなかった。三沢さんは世界(3冠ヘビー級王座、世界タッグ王座)を狙うというので、俺の実力がそこまで伴っていなかったんだろうけど。悔しかったというのがあるよね。(上を狙うパートナーが)俺じゃないんだなって」と振り返る。
それでもこの出来事が、小橋のプロレス人生に大きな影響を与えた。「今となってはいい思い出だよね。三沢さんとアジアタッグを取ったのがあったから、その後にジョニー・エースと組んだり菊地(毅)さんと組んでアジアを取った。自分自身がアジアタッグを引っ張っていかないと、という思いが芽生えた」
この時の悔しさをバネにトップレスラーに上り詰め、三沢さん、田上明、川田利明と「四天王」の一角を担った。再び三沢さんと組んだ93~95年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では史上初の3連覇を達成。この記録はいまだに破られていない。
「三沢さんからは、他のプロスポーツに負けたくないんだという思いを感じた。プロレスファンが胸を張れる試合をしたいと。自分が成長して上で本当に大きな背中を見せてくれた」と今でも感謝の気持ちを忘れない。
命日の2日後、15日には自身のプロデュース興行「Fortune Dream7」(東京・後楽園ホール)を3年ぶりに開催。今回は三沢さんの追悼興行は銘打っていないが、小橋、田上、川田の元四天王3人が恒例のトークバトルで激突する。参加21選手中14人が初参戦で、現在進行形のプロレスに「全日四天王」という過去が融合する大会になる。
「四天王のうち3人だけど、三沢さんも見守ってくれていると思う。みんな、三沢さんがこのリングを見てくれているという思いで戦ってくれると思う。熱い大会にしたいよね」。小橋は静かに口にし、大会の成功を約束した。