【武藤敬司の軌跡(28)】全日本プロレスの社長として他団体との交流戦を仕掛けたり、プロレスの職人を集めた「パッケージプロレス」を展開したりして、徐々に「武藤商店」としていい形で固まりつつあったな。

武藤(上)は中邑にムーンサルトプレス(08年4月)
武藤(上)は中邑にムーンサルトプレス(08年4月)


 そんな中、46歳になる2008年にプレーヤーとしても何度目かの「ピーク」を迎えた。この年に、7年ぶり4度目となる東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」の最優秀選手賞(MVP)を史上最年長で受賞したんだよ。全日本では9月にムタが3冠ヘビー級を取ってね。さらに新日本も苦しい時期で、ちょっとしたテコ入れが必要な時で、一緒にいい形で仕事ができたよ。

 俺のコンディション? 良くないよ! ヒザも痛かったしさ。年齢的にも当然、全盛期じゃないんだけど、いよいよ、なんとなく大御所に近づいてね。乗ってきていた。ヒザが動かなくて大変だったんだけどな。

 それで4月に新日本の大阪大会で中邑真輔から1999年以来、9年ぶりになるIWGPヘビー級のベルトを取ったんだ。するとその後、新日本はV4戦(10月13日、両国国技館)でまた中邑をぶつけてきたんだ。まさかまた同じ相手をぶつけてくるとは思わなかったよ。4月の対戦では、閃光魔術弾からの月面水爆で勝ったんだけど、2回目のときは、そこまでやっても勝てなくてね。で、最後に切り札のフランケンシュタイナーで勝ったんだよ。

 この試合で俺の“貯金箱”にフランケンシュタイナーが入ったんだ。もともとちょこちょこやってはいたんだけど、インパクトを付けて技として“上がった”のは、ここだと思う。余談だけど、それが後のGHCヘビー級王座奪取につながったんだ。21年2月に潮崎豪からフランケンシュタイナーで取れたのは、この時の“貯金”のおかげだよ。話を戻すと、IWGPは09年1月4日の東京ドーム大会で5度目の防衛に失敗して、棚橋弘至に取られてね。そこから、よう棚橋が新日本を盛り上げたよ。

 ああ、そうか…。09年6月には三沢光晴社長が亡くなられるのか…。巡業か何かから自宅へ帰った時に、テレビのニュースで知ったんだった。驚いてさ。変な話、新日本は「攻め」で全日本は「受け」のプロレスを極めているわけじゃん。その中で、受けを極めた三沢社長が、なんでそんなことになっちゃうのかなって思ったよ。

 08年は絶好調だったけど、その後は少しずつ苦しい時期を迎えることになるんだよ。10年になると、いよいよヒザの調子が本当に悪くなってきてさ。手術をして、巡業も回れなくなったんだ。すると、これに合わせて全日本の業績も徐々に落ち込み始めることになっちまったんだよ。

【武藤敬司の軌跡】記事一覧へ