【赤坂英一 赤ペン!!特別編】かつて「不惑の大砲」と呼ばれた門田博光さんが、74歳で亡くなった。訃報に接し、私が真っ先に思い出したのは35年前、パ3球団を巻き込み、連日報道合戦が繰り広げられた去就騒動である。

 門田さんは南海時代の1988年、40本塁打を放ち、史上初めて40歳で本塁打王を獲得。打点王と2冠に輝き、MVPにも選ばれた。その矢先、南海がダイエーに身売りし、大阪から福岡へ移転することが発覚する。

 右アキレス腱に古傷を持ち、幼い子供が2人いた門田さんは福岡への〝単身赴任〟を拒否。関西に本拠地を置く他球団への移籍を訴えた。まだFA制のない時代、杉浦監督は大功労者の希望に応えようとトレードの検討を始める。

 すぐさま「門田は大阪の宝や」とラブコールを送ったのが近鉄の仰木監督。当時、門田さんの自宅は近鉄沿線にあり、いつも奈良の学園前駅から難波駅の南海の本拠地・大阪球場に通っていた。そうした縁から、スポーツ紙が「近鉄移籍決定!」と報じた矢先、オリックス移籍へ引っくり返ったのである。

 近鉄と破談になったのは、ダイエーが交換要員に村上隆行と加藤哲郎を要求し、仰木監督の方が断ったためと言われた。が、当の仰木監督はこの見方を真っ向から否定。「こっちは最初からオリックスと二股かけられとったんや」と、私の取材にこうまくし立てた。

「門田はずいぶん前からオリックスに決まっとった。条件(年俸)もウチとは3000万円から5000万円の差があったようや。それでもダイエーにはウチ(近鉄)からええ選手が取れれば、という気があった。そやから、杉浦さんも二股かけた」

 門田さんの態度をどう思うか、改めて尋ねたら、仰木監督はこう答えた。

「大阪に残りたいというのは、プロの判断として当たり前やと思う。でも、どれほどの実績を残しても、チームまで選ぶ資格はないやろう。(南海の本拠地)大阪市から市民栄誉賞をもろうたそうやが、(当時オリックスの本拠地)西宮市と(門田さんの出身地)奈良市に表彰してもろうたほうがええんと違うかなあ」

 そんな憎まれ口を利きながら、仰木さんは未練たっぷり。のちにオリックス監督に就任すると、門田さんを打撃コーチに招こうとしたが、この時「自分は指導者向きではない」と断られている。

 いまごろは、ふたりとも天国でそんな昔話に花を咲かせているかもしれない。謹んでご冥福をお祈りいたします。