【石毛博史 火消しは任せろ(9)】僕は1988年のドラフト会議で名前が呼ばれず、内定が決まっていた住友金属に行くつもりでした。志望球団は在京のセ・リーグの巨人、大洋、ヤクルト。それ以外の指名だったら住友金属さんにお世話になろうと…。野球を見ているのはセ・リーグだけだったし、親に見に来てほしいというのもありました。
千葉・市銚子高のエースとしてテレビのドキュメンタリー番組に追いかけてもらっていたんです。ドラフト当日も来てくれていたのにどこからも指名がなく、ショックが大きかった。雨の中で家に寂しく帰りました(笑い)。すると、その日に巨人のスカウトだった城之内邦雄さんから連絡があって「ドラフト外だけど、入りませんか。評価は3位の金足農の佐川潔と変わらない」と言ってもらえたんです。
両親は野球が終わってからの人生の方が長いんだからと住友に行ってほしい、安定してほしいと巨人入りを反対されました。でも小学4年から野球を始め、プロになるのが夢だったんで行かせてほしいと説得し、最後は背中を押してもらえました。
ドラフト外なんで練習生扱いの下働きが多い。登録外で二軍の試合にも出られない。でも勉強になったのは、足の大ケガからの復帰を目指してリハビリをやっていた吉村禎章さんに毎日、打撃投手で投げることができたことです。他の投手は試合があるし、僕に投げてくれとなった。後に吉村さんが一軍復帰して打った時はうれしかったですし、90年には吉村さんのサヨナラ本塁打で優勝が決まりましたからね。僕が頑張ったわけじゃないけど、少しでも手伝いができた。
試合に出れなくても焦りも何もない。ブルペンで同期と投げても「この人たちなら勝てるな」と思っていました。一軍の人たち、槙原寛己さん、桑田真澄さん、斎藤雅樹さんのピッチングを生で見ると「この人たちには絶対勝てん」と思うけど、4~5年上の投手なら負けないと思っていましたね。その1年間は野球ができる体力をつけようと思ったし、出遅れた感はまったくなかった。試合にいきなり投げていたらヒジのこともあったし、どうなっていたかわからない。宮田征典投手コーチにも出会えたし、その意味では育成を上手にしてもらい、いい準備期間が送れたんじゃないでしょうか。
けん制、クイック、カバーリングもバンバンやったし、そういうのもピッチャーの仕事だと教わった。これが毎日ピッチングとなるとフォームとか、スピードとか、投げることばかりになってしまう。宮田さんにはリリーフ教育だけでなく、そういうことも徹底して指導していただきました。一番の恩人ですよね。
巨人といえば阪神との伝統の一戦が盛り上がりました。特に僕は試合の終盤に出るので甲子園が異様な空気になって…。
☆いしげ・ひろし 1970年7月13日、千葉県銚子市出身。市銚子高から88年のドラフト外で巨人に入団。92年にリリーフ投手として頭角を現し、52試合で防御率1.32、16セーブ。93年は30セーブで最優秀救援投手を獲得。94年もリーグ最多の19セーブ(タイトルはヤクルト・高津)を挙げて優勝に貢献した。96年オフにトレードで近鉄に移籍。先発、中継ぎとして奮闘し、2001年にミラクル優勝。03年には星野阪神でも優勝を経験した。05年に引退。その後は独立リーグで指導を続け、現在は富山の社会人チーム「IMFバンディッツ」の投手コーチを務める。












