【石毛博史 火消しは任せろ(6)】チームメートとはあまり野球の話はしないですよ。「勝利の方程式」のコンビだった橋本清さんとも攻め方の話とか、あまりしたことはなかったと思うし、野手の人からもアドバイスをもらったようなことはなかったですね。僕は一匹オオカミというか、あまりつるまない方でした。いつも冷静だったし、そういうのもマウンドに出ていたのかもしれないです。

 でも仲間意識は強くて、忘れられないのは、僕が甲子園の阪神戦でサヨナラの押し出し四球を出したことがあって、宿舎で落ち込んでいたんです。勝てていた試合が自分のせいで負けてしまった。打たれて負けるのとまた違う。それがきつくて悔しくて、部屋に閉じこもっていたら「石毛が食事会場に来てないぞ」というんで、原辰徳さんが部屋に来てくれた。「飯食ったんか。お前で勝っている試合が何試合あると思ってるんだ。1試合くらいで落ち込んだらみんな心配するだろ」って。130分の1試合として割り切れない自分を心配し、わざわざ来てくれたんです。

 先発投手が試合をつくり、点は野手が取ってくれている。なのに「お前のおかげで勝っている」なんて…。僕が最後を切り抜けて勝てた試合のことを原さんが思ってくれていたのはすごいこと。ありがたかったですね。

 時間差で駒田徳広さんも来てくれました。エレベーターで駒田さんと一緒になった時、僕が「すいません、すいません」と何度も言ってたら「もう言うな。怒るぞ。明日もあるんだ」って。そういう先輩たちがいた。傷をなめてくれたり、なぐさめるんじゃなくて「こうあれ」ということを言ってくれる。ふだん野球の話はしなくても、ポイントポイントで刺さるようなことは言ってもらえたかな。叱ってくれる人ですね。

 バッテリー間の打ち合わせもあんまりなかったですよ。捕手が誰だからとか、打者が誰とか、あんまり気にしなかった。ミーティングはあってもあんまりどう攻めようとか考えていなかったかな。スコアラーのチャート表を見て自分の頭の中でかみ砕いて処理する。深く研究するまで踏み込まず、打たれても「自分のミスショットがたまたま打たれた」と変換して(笑い)。そこをもう一歩掘り下げて研究していたらもっとできていたかな、とか考えますね。

 今でも自宅にある大量のチャート表をたまに見ますもん。その時の映像がパッと出てきて「ここは同じやられ方をしているなあ」「ここをこうしていたら」とか…。やめてから悔しい思いになることが多いですよ(笑い)。

 巨人は伝統ある「紳士球団」。周囲に見られている意識がすごく強くて、遠征でもきっちりしとかないといけません。それが当たり前と思っていたので窮屈に思ったこともないです。でも中には隠れて宿舎を抜け出す選手もいて…。

 ☆いしげ・ひろし 1970年7月13日、千葉県銚子市出身。市銚子高から88年のドラフト外で巨人に入団。92年にリリーフ投手として頭角を現し、52試合で防御率1.32、16セーブ。93年は30セーブで最優秀救援投手を獲得。94年もリーグ最多の19セーブ(タイトルはヤクルト・高津)を挙げて優勝に貢献した。96年オフにトレードで近鉄に移籍。先発、中継ぎとして奮闘し、2001年にミラクル優勝。03年には星野阪神でも優勝を経験した。05年に引退。その後は独立リーグで指導を続け、現在は富山の社会人チーム「IMFバンディッツ」の投手コーチを務める。

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