【石毛博史 火消しは任せろ(5)】1995年は救援失敗もあり、3位に終わって連覇はできなかった。他球団から研究され、それを上回る進化をしなきゃいけなかったのに…。その年、野村ID野球で育ったヤクルトから広沢克己さんがFA加入。広沢さんに「首の振り方で球種が分かったよ。そういうミーティングをやってたよ。クセもすごく見ていた」と言われたんです。

 僕自身も少しずつ変える意識はしていたんですが、そこに重きを置いていなかった。それより今持っているボールをもっと磨こうという気持ちの方が強かった。傾向と対策をされていたことをもっと真剣に受け止めて進化する必要があったのに…。

 当時の僕ってまっすぐとスライダー、カーブくらいしかなかった。それに自信を持っていたし、増やすより、今のボールの精度を上げようと…。進化する自分を止めていたのかもしれないですね。向上心がなかったわけではないですが、あとで考えたら方向性が間違っていたんでしょう。研究されていることに対してもっと踏み込んでいけていたらと…。変な自信があったし、それが過信だった。進化してやっていればセーブ王ももっと取れたかもしれないし、トレードもなかったかもしれないとか…。フォームを見直したり、キャッチャーとのコミュニケーションも含めてね。後悔があります。

 そんな中、翌96年は「メークドラマ」で11・5ゲーム差から大逆転して優勝。チームはすごかったですけど、僕はそこまで参加できていなかった。4月に加入した新外国人のマリオ・ブリトーが活躍し、後半は川口和久さん、河野博文さんもリリーフで結果を出しました。相手の勢いを止めるのがストッパーとしてのやりがいだったけど「ここは自分だ」と思った時に行かせてもらえない。そういう場面が結構増えてきて悔しさを感じていました。長嶋監督の信頼をなくすような登板も多々あったと思うんです。もっともっと貢献したかった。シーズン中は「チームが勝てばいいや」という思いは変わってなかったですけど…。ジレンマの中での複雑な思いですね。

 23試合で4勝1敗、防御率3・51、3セーブ。もっと登板したかったし、94年の優勝とは気持ちが違いました。日本シリーズはイチローを擁して連覇したオリックスが相手。第1戦と第4戦に登板し、日本シリーズで初セーブをつけることができましたが、2勝4敗でチームは日本一を逃しました。まさかそれが巨人での最後の登板になるとは…。

 巨人での8年間はいろんな出会いがあり、成長できた。でもチームメートとはほとんど野球の話はしなくて、素晴らしい投手が近くにたくさんいたのにアドバイスもされたことはなく、僕も聞いたりはなかった。自分のことに集中しすぎて聞こうとしなかったかもしれません。

 ☆いしげ・ひろし 1970年7月13日、千葉県銚子市出身。市銚子高から88年のドラフト外で巨人に入団。92年にリリーフ投手として頭角を現し、52試合で防御率1.32、16セーブ。93年は30セーブで最優秀救援投手を獲得。94年もリーグ最多の19セーブ(タイトルはヤクルト・高津)を挙げて優勝に貢献した。96年オフにトレードで近鉄に移籍。先発、中継ぎとして奮闘し、2001年にミラクル優勝。03年には星野阪神でも優勝を経験した。05年に引退。その後は独立リーグで指導を続け、現在は富山の社会人チーム「IMFバンディッツ」の投手コーチを務める。