【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】ミスター・デンジャーにも“最後の時”が――埼玉県の屋内スタジオで決行された、ガラス、炎、畳針、画鋲が肉体を襲う「ガラスレイン鉄球地獄デスマッチ」。大谷晋二郎に壮大に敗れた松永光弘氏が振り返る。

【2009年5月17日 大谷晋二郎VS松永光弘】

 2008年当時は、スピリチュアルブームでした。友人に誘われておもしろ半分でカウンセラーの所へ行ってみると「もうプロレスは辞めてください。あなたはもうすぐリングの上で死にます」と言われました。当時、体調もあまり良くなく、多少嫌な感じもしましたが「プロレスは辞められません」と私は言いました。

 そんな時に、ガラスレイン鉄球地獄デスマッチを発表したのですが、前売りチケットが今までに経験がないくらい、売れませんでした。

 今まで当日券に強い男として、後楽園ホールの当日券売り上げ記録を何度か塗り替えましたが、今回は立地もいいとは言えず、しかも畳針デスマッチでの集客に苦戦していましたから、当日券で逆転するとはとても思えません。しかもこのデスマッチの設備費はアクシデントもあり約80万円とかさみました。

 試合の6日前に、最後の記者会見を頼まれました。残り6日となると、告知媒体は東京スポーツとプロレス雑誌のモバイルしかありません。そこで私は考えに考えましたが、会場を逆転超満員にする方法は、たった一つしかありませんでした。

「最後のデスマッチ」

 私は記者会見でそう書いた紙に血の手形を押して無言で見せました。

 記者の目から光が消えて悲しげな目になりました。私は、自分の現役引退を切り札にして集客する道を選んだのです。

 当日を迎え、私は大日本プロレスとアパッチプロレスの葛西純選手に引退の連絡を入れました。そして高校時代からの親友である齋藤彰俊選手に連絡を入れると「引退は絶対に許さない。まだ同じリングに立っていないじゃないか」とどうしても引き下がってくれませんでした。

 齋藤選手の意志に押され、正式な引退試合は後日何らかの形で齋藤選手と行う、そしてこの日の興行のタイトルは「ミスター・デンジャー最後のデスマッチ」としました。私がこの試合を事実上の引退試合と呼んできたのはこんな理由です。

 試合が終わりマスコミの前に立ち「大日本プロレスおよび全てのデスマッチファイターへ。もう若い選手には、勝てないことが分かりました。負けたよ。デスマッチを絶やさず頑張ってください。ミスター・デンジャーはリングを降ります。ありがとう」とコメントを残しました。

 当時、自分自身こんなに唐突にこんな形でリングを去るとは思っていませんでした。ザ・シークのように70歳になっても怖いレスラーでいたいと思っていただけに、かなりショックでしたが、運命を受け入れることにしました。

 この日、ミスター・デンジャー松永光弘は、事実上終わりました。しかしまだ人気のある時に辞めて良かったと今は思っています。

 この「最後のデスマッチ」の盛り上がりがとにかくすごかったため、引退試合でもう1試合することへの抵抗がなかったと言えばうそになりますが、これも今は全て丸く収まって良かったと思っています。

 ☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。