【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(96)】今季球団から戦力外通告を受け、プロ5年でグラブを置いたソフトバンク・島袋洋奨投手(27)。興南高時代に沖縄県勢初の夏優勝、史上6校目の春夏連覇という偉業を達成しながら、進学先の中央大でイップスを発症、プロで復活することはできなかった。当時の中央大監督で島袋の一番苦しい時期を知る秋田秀幸氏(64)が、第2の人生を歩むトルネード左腕にエールを送った。

「あの小さい体で、とんでもなく速い球を投げる。本当に素晴らしい投手でした。最高の時期は高校時代だったのかもしれないが、本人も悔いはないと思う。私も彼を指導できたことに悔いはないです」

 中央大OBで卒業後プロにも進んだ秋田氏が、前監督の推薦で母校の監督に就任したのは2012年。島袋は1年生ながら入学直後の東都春季リーグで開幕投手に抜てきされ、防御率0・99を記録して新人賞を受賞した期待のルーキー。監督としては2年時からの付き合いも、その島袋を獲るよう尽力したのが他ならぬ秋田氏だった。

「監督就任前は大手の電力会社に勤務していたんですが、たまたま島袋の親父さんが同業者でね。OB会の意向もあって、いろんなツテをたどって会わせてもらった。ただ、結局は本人の意思。中央大に来てよかったかどうかは本人にしかわかりません」

 秋田新監督のもと、迎えた2年春のシーズン。開幕戦で延長15回、226球を投げ劇的な完投勝利を挙げた島袋だが、ほどなくして左ヒジを故障。そこから少しずつ歯車が狂い始める。制球が定まらず、徐々に四球や暴投が目立つようになっていった。

「イップスみたいな感じでね。心なのか技術的なものなのか、原因がわかったら苦労はしない。それでも、監督をやった5年間で一番印象に残っているのがあの初戦。ウイニングボールは今でも持ってます。あれだけ投げられるわけですから、いつか戻ってくれるだろうといろいろなことをやりました」

 ときにリリーフとして起用、3年秋には主将にも任命した。4年春には開幕カードで5連続四球と状態が戻ることはなかったが、秋には本人の意思でプロ志望届を提出。ソフトバンクに5位指名されると、人目をはばからず涙を流した。その光景を、秋田氏は複雑な思いで見つめていた。

「自分がプロを経験してるからこそ、本当は1位や2位で行くべきだと思うんです。実際(中大4年の2015年ドラフトでは指名漏れして日本生命から17年ドラフト2位でDeNA入りした)神里には行くなと言いましたし、あの子はそれで成功した。ただ、島袋は別格。あれだけ世の中を感動させた選手、苦しい思いを味わった選手には言えません。彼は社会人でダメになるほうが悔いが残る。あれだけの人間性が備わった子、仮にプロでダメでも次の社会でやっていけるという確信がありましたから」

 自身もプロ5年で戦力外、30歳手前から職を転々としてきた秋田氏はこう島袋にエールを送る。

「大事なのは感謝の気持ち。私はゼロからのスタートでしたが、それさえあれば何とでもなる。あの子はそれを持ってる子、心配は何もしていません。僕と同じで、これからですよ」

 高校時代、県勢悲願の夏初優勝と史上6校目の春夏連覇を成し遂げた“沖縄の伝説”島袋洋奨。栄光のその後を知る恩師は、トルネードのないだ今も教え子の行く末を思っている。 

 ☆あきた・ひでゆき 1955年4月29日生まれ、北海道美唄市出身。小学校3年のとき、ソフトボールを始める。末広中では軟式野球部に所属。静岡商で2年春、3年春と甲子園出場。中央大では1年春から「4番・三塁」として4年間全試合フルイニング出場。77年にドラフト5位で中日に入団し、82年に現役引退。その後は一般企業を経て、12年に中央大監督に就任。16年に同校監督を退任。180センチ、80キロ。右投げ右打ち。