【久保康生 魔改造の手腕(9)】高校1年生の夏、野球部の練習中に同級生の死を経験しました。悲しい現実を乗り越え、翌年の甲子園に出場することができました。

 そして翌年の夏には我々が新チームの中心となりました。まさに破竹の勢いでした。向かうところ敵なしで36連勝。それを止めたのは長崎海星の「サッシー」こと酒井圭一投手(後にヤクルトドラフト1位)でした。

 ただ、その後もずっと勝ち続けて、そのまま夏の甲子園にまで進みました。最後には3回戦でPL学園に負けて終わりになるんですが、優勝候補にも挙げてもらっていたほどでした。

 福田監督は絶対的なエースとして私の起用にこだわりました。他にもいい投手がいたのですが「エースは1人だ」と言ってかたくなに私を登板させてくれました。

 3年の春、和歌山に招待試合で訪れた時には1日で3試合に登板したこともあります。複数チームで朝から変則トリプルヘッダーです。

 1976年春の九州大会では、準々決勝の豊見城(沖縄)から準決勝の東筑(福岡)、決勝の海星(長崎)の3試合をすべて完封で勝利しました。

 特に準決勝は延長10回を投げ切って、その40分後くらいに決勝戦が始まるという状況でした。今では考えられないむちゃくちゃな日程ですが、当時の私にとっては何も問題なかったです。同じ日に2試合登板して2試合連続1安打完封でした。ほぼ、2試合連続ノーヒットノーランになってもおかしくない内容でした。

 それでも、夏の甲子園では勝てませんでした。2回戦から始まり三重高校に勝利し3回戦進出。PL学園と対戦するわけですが、思わぬ敗戦を喫してしまいます。今振り返っても完全にナメていましたね。負けるわけないと思い込んでいましたね。

 その結果、中村誠司投手に抑えられ0―1で我々の高校野球は終わりました。福田監督が当時「お前らで日本一になれなかったのは俺の汚点だ」とおっしゃったくらいまとまったいいチームでした。

 同期の立花義家はクラウン(のちの西武)のドラフト1位で、私は近鉄から1位指名。捕手の末次秀樹も日本ハムから3位で指名(拒否し中大からヤマハ)されました。

 当時の高校野球はタレント揃いでしたね。長崎海星の「サッシー」酒井は旋風を起こしましたし、そのチームには1学年下に平田勝男(阪神二軍監督)がいました。

 広島崇徳の黒田真二(後にヤクルト)、山崎隆造(後に広島)や石川星稜の小松辰雄(後に中日)、滋賀堅田の都裕次郎(後に中日)、奈良智弁の山口哲治(後に近鉄)、銚子商の宇野勝(後に中日)らのちのプロ野球選手が多くいて活気がありました。

 全国から豊かな才能が集まってきてにぎやかでしたね。その中でもすごかったのが、東海大相模のプリンス・原辰徳(巨人監督)でしたねえ。

 歩くだけで「キャー」って黄色い声が飛ぶ。もともとは福岡の大牟田の出身なんだぞと思いながら、眺めていましたねえ。

 同じ福岡県出身で本当に仲良くお付き合いしてもらいました。以前にはジャイアンツのコーチにもお誘いいただいたこともありました。残念ながらタイミングが合わず、ご縁がありませんでしたが。

 さて、柳川商・野球部での生活を終え、のちのドラフトを待つことになるのですが、各球団のお誘いを受ける中で私は痛恨のミスを経験することになります。