“炎の飛龍”藤波辰爾が、自身のデビュー50周年記念ツアー最終戦「DRAGON EXPO 1971」(12月1日、東京・国立代々木競技場第二体育館)で、新日本プロレスの棚橋弘至とシングルで対戦することが決まった。記念ツアーのファイナルで愛弟子との激突が決まった飛龍も万感の思いだろう。
12月で69歳。この勢いだと70歳など軽く突破しそうなほど元気な藤波だが、その基盤となっているのは、若き日に米フロリダの“神様”カール・ゴッチ道場で積んだ猛練習だ。
昨年4月に50周年記念のインタビューをした際「ゴッチ道場が僕の原点。20代前半の2年間、ゴッチさんのところに住み込んで鍛錬したからこそ、50年間もやってこれた。長州(力)との一連の抗争でも彼の攻めを受け止めることができたのもゴッチさんの教えがあったからこそだった」と語った。伝説となっている練習のハードさを改めて本人から聞き、ひたすら感服するしかなかった。
藤波は1974年「第1回カール・ゴッチ杯」を制覇。翌75年6月、木戸修と西ドイツへ初の海外修行に出発。その後、同年11月にはフロリダ州タンパのゴッチ道場に飛んで指導を受けた。
76年2月に木戸が帰国すると同時に、藤波は単身ノースカロライナ州でサーキットに突入。シャーロッテを中心にグリーンビル、サバンナ、バージニアのリッチモンドなどを転戦。76年11月19日付本紙には「猪木継ぐ男」「アメリカ南部の旋風児に成長」の見出しで特集記事が掲載されている。当時22歳。全体的には初めての米国修行に挑む若武者が奮闘中というトーンだった。
『この9か月で藤波はすっかり南部のファンのなじみになった。名を上げたのは“チェーンマッチの鬼”グレート・マレンコとの大死闘からだ。さらには負けっぱなしだったミスター・レスリング(ティム・ウッズ)に勝つと、ポール・ジョーンズの持つミッド・アトランティック・ヘビー級王座(ガルフ・コースト地区)に初挑戦の幸運をつかんだ。10日(日本時間11日)サウスカロライナ州グリーンビル。結果は1ー2で敗れたが、1本目はダブルアームスープレックスで先制する大健闘だった。藤波は新日プロにあてた便りの中で「この試合はいい勉強になりました。試合の駆け引きという点で学ぶことが多かった。必ずシングルの王座を手に入れます」と力強い言葉を寄せている。10月にはワシントンDCのキャピタル・アリーナに進出。ブラックジャック・マリガンに惜敗したが、本場でメインイベンターの仲間入りをしつつある』(抜粋)。
当時はテレビマッチを入れると1週間に実に8試合をこなしていた。しかし試合と並行して藤波のレスラーとしての基礎を築いたのが、ゴッチ道場での鍛錬だった。
記事中でも「今になってゴッチさんにしごかれた成果が表れてきたような気がする。試合もキツいがゴッチさんの指導はそれ以上に厳しかった。床に倒れたことなど毎日だった。それを思えば血を流したり、場外に投げ捨てられるなど、カスリ傷のようなものだった」と語っている。
同記事で猪木は「藤波は米国でメインイベンターになったら帰国させる」と語っているが、その時は思った以上に早く、想像を超える衝撃を伴って訪れる。この記事からわずか1年2か月後の78年1月23日、藤波はニューヨークのMS・Gでホセ・エストラーダをドラゴンスープレックスで撃破し、WWWF(現WWE)世界ジュニアヘビー級王座を獲得。一気に時代の寵児となり凱旋帰国を果たした。ここからの快進撃は改めて触れる必要はないだろう。期待の若手の特集記事は、やがて本紙の連日の1面記事へと昇華する。若き日のドラゴンをトップレスラーに押し上げたのは、師匠の猪木だけではなく米国修行とゴッチ道場での猛鍛錬だった。












