「還暦」を迎えた後楽園ホールで“聖地”が初めて“修羅場”と化した試合がある。国際プロレス初の後楽園での金網デスマッチだ。主役はもちろん“金網の鬼”ことIWA世界ヘビー級王者ラッシャー木村。1976年12月3日に“放浪の殺し屋”ことジプシー・ジョーを相手に後楽園で初の金網戦を敢行している。
木村は海外修行から帰国した1970年10月8日に大阪でドクター・デスと日本初の金網デスマッチを敢行。以降、国際プロレスの看板として金網マッチでは“不敗伝説”を誇った。しかし当時はストロング小林という不動のエースがいたため、タッグ王座は獲得したものの、看板のIWA世界ヘビー級王座とは縁がなかった。シングルでは無冠の帝王として地獄の金網で壮絶な大流血戦を寡黙に重ねていく木村の背中は、まさに「男」そのものだった。
73年7月9日大阪では悲願だった小林への挑戦が実現。「日本人同士初の世界戦」と大きな話題を呼んだが惜敗。結局小林は翌年2月に退団してアントニオ猪木との世紀の一戦(3月19日蔵前)に向かったため、木村は新エースとして75年4月にIWA世界ヘビー級王座初戴冠。金網デスマッチで防衛を重ねる。それから1年8か月、後楽園で初の金網デスマッチが実現した。
木村とジョーはこのシリーズで「喧嘩三番勝負」と銘打った抗争を展開。10月26日茨城・境町、11月1日札幌といずれも場外戦のほうが長い大流血戦の末、両者リングアウトドローに終わっていた。札幌の試合後、怒り心頭の木村は「こうなったらジョーがリング外に逃げられない状況をつくるしかない。金網しかないだろう!」と後楽園での金網デスマッチをぶち上げるや、ジョーも「金網でも何でもやってやる」と応じ、歴史的な一戦が実現する。
そして決戦。後楽園初の金網マッチは異様な雰囲気の中、行われた。金網を設置する時間は無機質な金属音が鳴り響き、観客席は異様な緊張感に包まれた。本紙は1面で詳細を報じており「凄絶!“東京金網戦”の全貌」の大見出しが強烈だ。試合はいきなり大荒れとなり、ジョーが金網に木村を叩きつけたうえ、凶器攻撃で大流血に追い込む。さらにコーナー最上段からのニードロップで一気に追い込んだ。ところがまさかの展開が待っていた。
「ジョーは太い鉄パイプで木村を失神させると金網のフェンスによじのぼった。またもニードロップか。今度は4メートルもある。ここで木村のセコンド陣が金網を揺すった。ジョーは木村を大きく飛び越え自爆した。さあ、木村の反撃だ。金網をよじのぼって逃げようとするジョーを追いかけて金網上段で額を叩きつける。木村はブレーンバスターから大の字のジョーをむりやり立たせてダブルアームスープレックス。ジョーはピクリとも動けなくなった」(抜粋)
セコンド陣の手助けがあったとはいえ14分37秒、木村がカウントアウトのKO勝ち。ジョーにあらゆる凶器を駆使されながら、反則だけせずに耐えたのだから、自軍のアシストぐらいは許されるだろう。「残酷すぎる」との批判を避けるため後楽園での開催は避けられていたのだが、初の金網デスマッチは想像以上の凄惨さを観衆に印象づけて終わった。その後は各団体が様々な過激デスマッチを敢行するが、クラシカルな試合ながら、この一戦が聖地に新たな歴史を刻みこんだことは間違いない。(敬称略)













