工事用コーンで「ツルター!」親日家ハンセンがマジギレして席を立った新人記者との逸話

2022年04月24日 06時15分

ハンセンは工事用コーンをメガホン代わりに絶叫(88年10月、高輪、東スポWeb)
ハンセンは工事用コーンをメガホン代わりに絶叫(88年10月、高輪、東スポWeb)

【プロレス蔵出し写真館】5月31日、後楽園ホールで行われる「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」に〝不沈艦〟スタン・ハンセンの来場が決定した。2019年2月19日に両国国技館で行われた「ジャイアント馬場 没20年追善興行」以来、3年ぶりの来日となる。

 ハンセンと鶴田は、米テキサス州アマリロのファンク一家の指導を受け73年にデビュー。グリーンボーイのころから何度か対戦、そして時にはタッグを組むなど、同時期にしのぎを削った仲だった。全日本のリングでは何度も激闘を展開し、3冠ヘビー級王座統一戦では鶴田がハンセンを破り初代の3冠ヘビー級王者になっている。

 インターナショナル王者の鶴田と、UN&PWF2冠王者ハンセンが統一戦を争ったのは今から33年前の88年(昭和63年)10月17日の広島大会。

 今でも記憶の片隅に残っているのは、ハンセンがこの一戦を前に来日した時のこと。
 
 ハンセンは3日前の14日に来日して常宿だった高輪の「ホテルパシフィック東京」にチェックイン。宿舎を訪ねると、上機嫌で歓迎してくれた。ハンセンは工事用のコーンを見つけると、それを持ってメガホン代わりにすると「ツルタ~!」と絶叫した(写真)。

 こちらがどういう〝絵〟が欲しいのかを察知していた。

 喫茶店に場所を移し、席に着くと、ハンセンは何でも聞いてくれとばかりに近況を話し始めた。「ミシシッピ州ジャクソンの自宅近くにある廃車工場で、巨大なハンマーを振り上げ、1日3台、来日前日まで43日間廃車を叩き潰した。腕力、背筋力、下半身の強化にも役立ちバランスも鍛えられた」。

 充分、使える話を新人記者が引き出し取材終了…とはいかなかった。

 しばらくしてフットボール時代の話になり「俺はUnderdogだった。プロレスはセカンドチャンス」と語り始めたのだが、我々はその単語の意味がわからなかった。繰り返し説明しても理解できないことに苛立った様子のハンセンは、しまいにマジ切れし席を立ってしまった。

 後日、ハンセンはジョー樋口レフェリーを通じ、席を立って申し訳なかったと記者に謝ってくれた。樋口は「俺に通訳を頼むより、英語がわからなくてもわからないなりに、自分で話を聞いた方が覚えてくれるよ」とフォローしてくれ、その新人記者に「君はもう覚えられたよ」と伝えてくれた。

 さて、広島での試合は両者リングアウトの引き分け。翌89年4月16日の後楽園ホール大会では、わずか14分余りで無効試合。鶴田は完全決着をつける特別ルールを要求すると息巻いた。2日後の18日、東京・大田区大会でハンセンのラリアートをかわした鶴田がエビ固めで押さえ込み、3冠王座統一はようやく決着をみたのだった。

 ところで、ハンセンは以前「日本人の顔は皆、同じに見えるので覚えるのは難しい」と告白していた。ド近眼なことも影響しているのだろうが、外国人から見た一般論でもあるようだ。

 とはいえハンセンの夫人は日本人(ユミさん)。引退して来日が途絶えた12年8月、MLBのレンジャーズVSレイズ戦に招待されたハンセン夫妻の、国歌斉唱の際に起立し胸に手を添えるほほえましい写真が共同通信で配信されたこともある。

 ハンセンは名実ともに親日家として、今でも日本人に親しまれている(敬称略)。

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