【プロレス蔵出し写真館】今から50年前の1971年(昭和46年)、日本プロレスに〝テキサスブロンコ〟27歳のテリー・ファンクが2度目の来日を果たし、陽気なテキサンぶりを見せつけた。 

 冬の東北巡業。12月3日に山形大会を終えた選手たちは、翌日、仙台に向かうため普通列車に乗り込んだ。前夜から雨が雪に変わり、山あいを走る仙山線の車窓は白一色となった。途中の奥新川駅で停車時間が10分あると、真っ先にテリーは外に飛び出した。あとに続いたディック・マードック、ジム・ゴールデン、リップ・タイラーとホームに積もっている雪を手に取ると、日本勢の若手に投げつけた。歓声を上げながら雪合戦を始めたのだった(写真)。

 前夜の山形で、テリーはアントニオ猪木と2度目のシングル対決(初対戦は前年75年7月28日の横浜大会。反則がらみの2―1で猪木が勝利)が実現。両者リングアウトで引き分けた。

 12月7日の札幌大会では兄ドリー・ファンク・ジュニアとのコンビでBI砲のインタータッグ王座に挑戦し、1―1から3本目をテリーがジャイアント馬場からダブルアームスープレックスでフォールを奪い、タイトルを海外に持ち帰った。

 さて、テリーは馬場が全日本プロレスを設立するとドリーとともに常連外国人レスラーとなり、後に人気が爆発する。

 77年12月に開催された「世界オープンタッグ選手権」でドリーとのザ・ファンクスで出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶コンビと対戦。ブッチャー、シークのフォーク攻撃で右腕から血を流して悲鳴を上げ、耐えに耐えて反撃開始。このテリーのベビーフェイスでの試合スタイルにファンは熱狂し、女性ファンの親衛隊、会場でポンポンを振るチアリーダーまで現れた。
 
 しかしテリーは人気絶頂だった83年、ヒザの故障を理由に引退を宣言した。「これまでワイフや子供に迷惑をかけてきた。引退したら、家族と一緒にこの牧場でノンビリ暮らすんだ」。米テキサス州アマリロ郊外キャニオンの自宅を訪問した本紙カメラマンにそう語った。

 引退試合は8月31日に蔵前国技館で行われ、ザ・ファンクスがスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組と対戦。テリーがコーナー上段からゴディに飛びついて回転エビ固めを決め、有終の美を飾った。リング上からマイクで「サヨナラ」を連呼し、女性ファンは号泣。感動的なフィナーレとなった。

 翌日、親睦団体「プロレス写真記者クラブ」主催のお別れパーティーが開催され、ビッキー夫人(当時)と2人の愛娘ブランディー、ステーシーさん、ドリー一家も出席。テリーは松葉杖をついて参加した。これでテリーを見るのも最後か…記念に色紙にサインをお願いした。

 テリーは〝Sayonara 1983〟It’s been a pleasure working with you & the press.You guys were just super.Thanks.(君たちマスコミと一緒に働けてよかった。お前らマジで最高だぜ)。サインだけでなくメッセージも添えてくれた。

 ところが翌84年8月、テリーは「日本のファンと家族が許すなら正式にカムバックしたい」とまさかの復帰を示唆。10月26日、米ミズーリ州セントルイスでロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座にザ・ファンクスで挑戦し、423日ぶりの復帰戦を行った。テリーはレスラーの引退→カムバックの先駆けだった。

 現在77歳のテリーは認知症の治療を受けていると米メディアに報じられた。今夏から故郷アマリロの生活支援施設に滞在していたが、今は介護付きホームに移っているという。

 回復に向かっているというテリーの〝ビッグカムバック〟はあるだろうか…(敬称略)。