【越智正典 ネット裏】往時のヤンキースの記者ボブ・コンシダインの「ベーブ・ルース物語」によると、ジョージ・ハーマン・ルースは2月に7歳になった1902年、明治35年6月13日、ボルチモアのセントメリー工業学院に入れられた。
この学院は「不良児、浮浪児、孤児、両親の離婚で家庭がメチャメチャになった家の子供、貧乏でほかに教育を授けてもらえない家の子供たちの訓練所」であった。
ジョージ少年はしかし、しばらくすると、両親によって学院を去り、シャツの仕立屋に奉公に行かされた。本人もシャツの職人になるつもりだったが、1912年、大正元年にまた学院に戻って来た。人の運命はわからない。ジョージ少年はアメリカやヨーロッパで、不幸な子供たちを救済する事業に力を入れていたカトリック教団のザビエル派の教団員「男らしい」アシアスにめぐりあい野球を始めたのである。当時の写真を見ると右手にミットをはめている。左投げのキャッチャーである。
学院は市の中心から西南に4キロ。私が訪れたそのときは、カージナルギブソンハイスクールになっていた。隣りは付属小学校。丘の上の校庭からボルチモアの町と港が一望できた。ここがジョージ少年のホームグラウンドか。見学出来たのは前回お話したように観光案内所のハロルド・エリクスさんのおかげである。
この昭和46年は、秋に日米野球でボルチモア・オリオールズが来日する。名三塁手ブルックス・ロビンソンの守備を見ておきたいと7月23日、メモリアル・スタジアムに球団事務所を訪ねると「広報担当(副社長)のジャック・ダン3世です」。驚いた。もし、カシアスにたのまれてジョージ少年を獲った、当時インターナショナルリーグの強豪、オリオールズのオーナー兼監督のジャック・ダンのお孫さんなら私には満塁ホームラン級の出会いである。
「そうです」「コンシダインさんの本を読んでいたのでジャック・ダンさんの名前をおぼえていたんです」
3世もよろこび、おじいちゃんから聞いた話を教えてくれた。
「ジョージは生まれて初めて汽車に乗ってキャンプにやってくるとホテルのエレベーターにびっくり、すぐにお気に入りになって練習が終わると上ったり下ったり。朝は毎日パンケーキを山ほど食べたそうです。そこでおじいちゃんが言ったんです。“ほかの人のも残しておきなさい BABE(赤ちゃん)!”」
これが程なく大ヒットして世界じゅうの人々に愛されることになる「BABE RUTH」
ベーブ・ルースがジャック・ダン1世の膝元をはなれてMLBの名門ボストン・レッドソックスに入団したのは1914年、大正3年。第一次世界大戦が始まった年であるが、アメリカは伝統的に局外。
ルースの第1年はピッチャーで2勝1敗、バッターで10打数2安打、二塁打1であったが、いよいよ二刀流が始まるのである。ワールドシリーズにも登板する。 =敬称略=












