【長嶋清幸 ゼロの勝負師(23)】1992年から中日で指揮を執った高木守道監督は星野色を一掃しようとして、落合博満さんの放出まで考えていた。オーナーに「落合をトレードに出してください」と言いに行ったら「落合を出すならお前もクビだ」と言われたらしい。いくら持て余すといっても、落合さんはチームの絶対的存在。その代わり、落合さんといつも一緒にいた俺と宇野勝さんが出ることになった。

 トレードって1回目は勇気もいるし、先が見えない不安もあるけど、2回目はもうどこに行こうがどうってことはない。千葉ロッテと聞いた時、強い弱いじゃなく、パ・リーグに行けることに興味があって、何の抵抗もなかった。

 初めて関東の球団でプレーすることになったわけだけど、こんなに物価が違うんだって驚いた。それに広島から中日に移籍した時は球団社長とかいろんな人が周りに来て話してくれて世話をしてくれたけど、ロッテは関係者が寄ってこない。どうしたらいいんかな、みたいな。勝手にやっといて、みたいなね。もともとロッテがそういう球団なんだろうね。団体行動より個人行動が多い。

 チームがバラバラっていうわけではないけど、それまでが団結力の強いチームだったんでロッテは違うなと思った。若い選手が寄ってくることも少なくて、宇野さんと一緒にいることが多かったね。二軍が埼玉で、千葉から車で1時間半~2時間かかってひと旅するような感じ。関東の道を覚えるのに1年かかった。

 八木沢荘六監督には試合で使ってもらったけど、パの野球のことをゼロから作らなきゃって考えすぎたところがあった。配球は違うし、セ・リーグと違ってパワー投手が多い。常時試合に出られないので慣れることもできず、一、二軍を行ったり来たり。「また埼玉かあ」みたいな…。その辺がしんどかったね。

 それがある日、日本ハム二軍の多摩川の河川敷グラウンドにいたら、阪神の編成をやっていた西山和良さんが寄ってきて「おい、マメ。お前はパは向いてない。もしよければ、ウチに来るか」って。「できるならお願いします。もう移動だけで疲れますわ」なんて言ったら「分かった。進めるわ」と。そこから93年オフ、阪神に金銭トレードで移籍することになった。子供のころから大の阪神ファン。縦じまを着れること、セ・リーグに戻れることがうれしかった。

 中村勝広監督に左の代打の切り札的な存在で使ってもらい、真弓明信さんにいろんなことを教えてもらった。知っている人が多くて、すんなりチームに入っていけた。当時は弱くて、あまり満員とはいかなくても甲子園で試合ができることはうれしいし、巨人戦なんかすごい盛り上がりだった。中日でお世話になった島野育夫コーチと再会できて、公私ともにお世話になった。

 スター選手だったのは5年目の新庄剛志。憎めないやつでねえ。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。