【久保康生 魔改造の手腕(15)】1986年に右ヒジを故障し手術を受けることになりました。そこから復帰したものの、私の成績は伸びずに低迷していました。
さらに若手の台頭で出場のチャンスを満足には与えてもらえず、自分の居場所を失ったような状態でした。
5年目だった吉井理人はリリーフエースとして立場を確立していました。4年目の山崎慎太郎は先発ローテの一角に食い込みました。6年目の加藤哲郎はプロ初勝利を挙げ勢いに乗っていました。
88年の春、開幕一軍からも外れ、登板機会も減少し、私は考えました。仰木新監督を迎えてチームは若返りの方針。私はもう12年目でベテランの域に入っていました。
このままチームに残っていてもチャンスはないだろう。そう思った私は決意しました。球団にトレードを直訴したのです。
その結果、5月に阪神との間でトレードが成立しました。同31日、私と阪神・中谷忠己の交換トレードが両球団から発表されました。
近鉄は左の代打強化、阪神は投手陣の再構築が急務とあってスムーズに話が進んだようです。この時期、阪神は暗黒時代と呼ばれる時期にありました。しっかり計算できる投手は先発のマット・キーオ、守護神の中西清起くらいではなかったでしょうか。
阪神ではその日のうちに出場選手登録され、早速、一軍登板の機会を得ることができました。チャンスをいただいた村山実監督には感謝ですね。
本当にフル回転させてもらいました。まだ右ヒジは良くはなかったのですが、やっぱり投げたい気持ちが勝ちました。
近鉄在籍時の最後はマウンドから遠ざかってしまい、本当に出場機会に飢えていました。試合に出てマウンドに上がってなんぼという気持ちが原動力でした。
当時は中継ぎ投手の立場が確立していたわけではなく、微妙な時代でした。イニングまたぎなんて当たり前で2、3イニングは普通に投げていました。
近鉄時代に同僚だった石本貴昭なんて、7回とか6回途中から出てきて最後まで投げてしまうのが当たり前でしたから。85年なんて70試合に登板し19勝3敗7セーブでセーブポイントは26。先発投手の数字ではないですからね。最優秀救援投手賞ですよ。規定投球回数もクリアしましたね。
今では絶対に考えられないですよね。今は50、60試合に登板しても1イニングが基本です。その時代、時代で大変さは違いますし、そこを論ずるつもりはないですが、総合的にみて野球選手の置かれる環境は良くなったと思います。
私が阪神に移籍した当時は投手陣の戦力も手薄で、痛いかゆいを言って休んでいられる状況ではありませんでした。いなくなるとチーム自体が回らない。調子うんぬんも言っていられない。
そんな環境で私はイニングバスター、イニングイーターとして多くの登板機会をいただきました。当時の阪神には、名前は出しませんが生え抜き投手の中に「登板拒否権!?」を持っている投手もいましたね。
「この場面は俺やないやろ」と言いながら、その視線はこっちを見ているんですよ(笑い)。私は出場機会に飢えていましたから、何でも屋でもいいと思い役割を果たすことを考え投げ続けました。
しかしその結果、登板試合数は500試合を超え550試合。多くの機会に恵まれました。
☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。












