【久保康生 魔改造の手腕(8)】柳川商を受験し入学、野球部入部という運びとなりました。これまでの人生とは一転、高校1年生としての寮生活が始まりました。
そしてその夏に悲劇が起こりました。3年生が甲子園大会で敗れ、新チームになった直後の8月5日のことでした。
同級生だった月足くんが練習中に熱中症の症状で倒れ、亡くなったんです。当時は練習中に水を飲むなと言われていた時代です。私なんかは隠れて水を飲んでしのいでいたタイプですが、月足くんはかたくなに真面目に飲まないような性格でした。
今となってはすべての詳細は分かりませんが、練習態度も真面目な同級生が練習中の事故で亡くなったという悲しい事故があったというのが現実です。
その事件をきっかけに、部活動は休止状態となりました。漏れ聞こえてきた話では、もう野球部は解散というような流れだったそうです。
8月とあって学校自体は夏休みでした。とりあえず寮から自宅に戻って待機を命じられました。
この状況で野球なんてとんでもないという雰囲気だったことは覚えています。
そうしたところ、もう2~3日後には学校に集合ということで連絡が回ってきました。野球部がまた、活動できるっていうことになったんです。
それは亡くなった月足くんの親御さんが理事長、校長に掛け合ってくれた結果でした。
うちの子は柳川で野球がしたくて、熊本から入学してきた。福田精一監督を慕ってきたんです。自分で望んできた野球部なんです。活動を再開させてくださいと直訴されたそうです。
その結果、福田監督は辞表を取り下げられ、野球部の活動再開が決まりました。
それでも、私たちは同級生が練習中に亡くなったわけです。さあ、新チームになって頑張ろうという時でしたし、精神的にきつかったのは正直なところでした。
それでも、その後に行われた秋季大会では勝ち進み、翌年の選抜への出場を決めることができました。私は代打で出場しただけでしたが、亡くなった月足くんへの思いを胸に、ともに甲子園で戦いました。
開会式では月足くんの遺影を持って、キャプテンが入場行進する予定でした。ただ、諸事情で高野連からストップがかかりました。
つまり、猛練習と同級生の死因との因果関係があいまいだったんです。責任の所在という部分でデリケートでした。
そうしたらということで監督、選手で相談して額から写真だけ取り出して、キャプテンのアンダーシャツに貼り付けて上からユニホームを着ることにしました。
ユニホームのボタンを開けて、そこから月足くんには甲子園の景色を見てもらいました。彼の遺志をつないで、みんなで甲子園に出たんだよって。
不幸にも練習中に死亡事故が起こってしまいました。そこから福田監督は以前に増して、選手の体調管理など真摯に考えてくださいました。
今でも監督を慕っています。昨年まで私はソフトバンクにいましたから、近いので球場でもお会いもしていました。
真弓明信さん(元阪神監督、評論家)、若菜嘉晴さん(元阪神、大洋など、評論家)や、同級生の立花義家(楽天打撃コーチ)の柳川商OBで福岡ドームで記念撮影したこともあります。監督は大喜びしてくれていました。
高1夏の解散の危機から野球ができるありがたみをかみ締めましたからね。翌年、自分たちが中心となったチームは破竹の勢いで快進撃を始めることになります。
☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。












