【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(25)】中日は2014年から落合GM、谷繁監督の新体制でスタートしましたが、時間が経過するにつれて亀裂が目立ってきました。谷繁監督と森ヘッドコーチの関係がだんだんと怪しくなっていったからです。

 落合GMは新指揮官に谷繁監督を選びましたが、主なスタッフは腹心である森ヘッドコーチが集めていました。森コーチは落合GMが中日に復帰すると聞いたときは監督として戻ってくると思っていたみたいです。それがまさかの谷繁監督。ヘッドコーチとして支えるのが落合監督ではなく、谷繁監督になったことに複雑な思いもあったのでしょう。昇竜館にいた私の耳にまでベンチ内の監督とヘッドコーチの関係がスムーズにいっていないという情報が入ってきました。

 谷繁監督がドラゴンズに連れてきた佐伯二軍監督は選手に対して熱心に指導するタイプでしたが、ときに行き過ぎることもありました。ある選手に対して5時間にわたって説教を行ったことがあったのですが、これが落合GMの耳に入り、行き過ぎた指導ということで佐伯二軍監督は落合GMから注意を受けたのです。そういったことなども重なって次第にチーム内の誰もが、落合GM&森ヘッドコーチと谷繁監督&佐伯二軍監督の間にすきま風が吹いている雰囲気を感じるようになったのです。

 それが表面化したのが東スポでも報じられた「谷繁監督・焼き肉店激怒事件」でしょう。15年9月に谷繁監督が焼き肉店で食事をしていると、たまたまその店にいた中日のある選手が「お世話になりました」とあいさつに来ました。その選手は数日前に戦力外通告を受けていたのですが、指揮官であるにもかかわらずそのことを知らされていなかった谷繁監督が激怒したという一件です。

 これはほんの一例で落合GMと森ヘッドコーチは谷繁監督の意向を確認することなく独断で物事を進めていきました。結局、谷繁監督と二軍監督から配置転換となった佐伯一軍守備コーチは、成績不振の責任を取らされる形で16年シーズン途中で休養。事実上の解任でそのまま森ヘッドコーチが指揮官となりました。

 落合GMは13年オフにはドラゴンズ黄金時代の大功労者だった井端に大減俸を突きつけ、井端はチームを去っていきます。1年目の選手でも容赦なく年俸をカットしていったことからアマ球界では中日を敬遠する空気が生まれ、有力選手からは「中日以外11球団OK」とまで言われるようになってしまいました。

 結局、落合GM時代の3年間、中日は4位、5位、6位と低迷しましたが、成績以上にチーム内に暗い影を落としたのが選手やスタッフの間から落合GMのやり方に対する不満の声が続出していたことでした。私は35年もの間、ドラゴンズでお世話になりましたが、この3年間ほどチーム内の雰囲気が悪かったときはなかったと思います。落合監督はドラゴンズの黄金時代を築きましたが、落合GMは暗黒時代を招いたと言われても仕方ないと思っています。

 森監督も18年に退任し、新指揮官には与田監督が就任。そして与田監督は18年ドラフトでドラゴンズの新たな希望を引き当てます。甲子園で大活躍した大阪桐蔭の根尾昂がドラゴンズブルーのユニホームに袖を通すことになったのです。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。