【コロナ危機を乗り越える プロ野球界にまつわる飲食店の現状】あのイチロー氏もメジャー時代から食する絶品食パン。全国187店舗を展開する高級「生」食パン専門店「乃が美」の、はなれ神戸三宮店、神戸元町販売店のオーナー・多岐篤司さん(52)は、阪神タイガースの元投手だ。

 三宮店を入るとすぐ、左側の壁にはイチロー氏のサイン。これは実際に来店した際に残していったものだ。オリックス時代にオープン戦で対戦があり「右越えの三塁打を打たれて、僕の開幕一軍がなくなりました」と苦笑いするが、今となっては貴重な裏話だ。

 多岐さんは1986年ドラフト4位で神戸弘陵高から入団。95年までプレーしたが「あまりいい思い出はない」と言うように、左ヒジ痛など故障に泣き、一軍登板4試合、未勝利にとどまった。引退後は義父が経営する水産会社に入社。「何もできなかった」という状況から、競りを任されるまでになった。

 自身が社長を継ぎ業界歴も20年を超えた。だが、年々業績は悪化。そのタイミングで現職に出会った。「乃が美」総本店の創業者が高校のチームメートという縁もあった。とはいえ、パン職人の技術も知識もなかった。

 それでも可能性に懸けた。義父や家族を説得し水産業を廃業。食パン作りを一から習得した。物件取得からパン焼き窯の購入など、約4000万円を投資。「これを最後の仕事にする」と勝負に出た。それまではアマチュアの野球指導も行っていたがすべて辞め、事業に集中した。

 結果、1本800円の高級食パンを一日で最高800本売り上げるほどの繁盛店となった。コロナ禍で4月は前年比の6割ほどに売り上げが落ちたが、休業することなく顧客に商品を供給し続けた。

 水産会社時代は仲卸で、仕事相手もすし職人やスーパーのバイヤーなどのプロ。エンドユーザーの生声を耳にすることはなかった。だが、現在は「『おいしかった』とか『コロナなのに店を開けていてくれてありがとう』と直接、お客さんの声を聞けることがうれしい」と手応えを口にする。

 今後については「スタッフもそれなりにたくさん増えてきた。将来は働いてくれている皆が『乃が美で安定して働けているから、マンションを買えたんだ』とか言ってもらえるような会社にしていきたい」と話す多岐さん。プロ野球での挫折を乗り越え、情に厚い実業家となった顔がそこにあった。

(楊枝秀基)