【球界平成裏面史(23)、中日・落合年俸問題(5)】 中日・落合博満内野手の平成2年(1990年)オフの年俸問題は年内に決着せず、翌年に持ち越しとなった。時間がたてばたつほど噂され始めたのが落合放出。金額で折り合わなければ、中日が他球団に出すのでは、と言われた。そのたびに球団サイドは否定。平成3年1月6日付の本紙は、伊藤濶夫球団代表の「はっきり言いますが、落合のトレードはありません。そんなことをしたら、球界に悪い前例を作ることになりますからね。仮定の話ですが、最悪の場合、やめてもらうしかありません。任意引退です」との発言を掲載した。
だが、肝心の契約交渉は全く進まず、落合は1月16日にカリフォルニア州サクラメントでの自主トレのため渡米。宮崎・串間市の二軍キャンプに自費参加も決まり、一方、交渉役の伊藤代表は一軍のオーストラリアキャンプへ。一軍が2次キャンプ地・沖縄に入る2月13日以降に次回交渉となった。
落合は常に注目の的で、二軍の串間キャンプには一軍のオーストラリアキャンプ以上の報道陣が集結した。若手に交じってマイペースに練習する落合は「俺がバットを握っただけで記事になるんだから、もう少しお金をもらいたい」と球団にメッセージを送ったり、湾岸戦争中とあって、報道陣には「俺とフセインで新聞を売っているんだから、お金を払ってもいいんじゃないか」と軽口を叩いたり…。年俸問題を深刻に受け止めている様子はなかった。
そして2月13日を迎えた。沖縄宿舎での交渉後、落合が姿を見せ「ズバリ言います。俺が要求しているのは2億7000万円、球団の提示は2億2000万円だよ。もう妥協もないし、歩み寄りもないし、15日に川島(セ・リーグ)会長がこっち(沖縄)に来るというから、文書で調停の申請をするよ」と宣言。日本人選手初の調停となり、球団も落合も、その決定には従うと明言した。
調停委は吉国コミッショナーと川島セ会長、原野パ会長で構成され、第1回委員会は2月28日に東京で行われた。そこで落合は前年限りで巨人を退団したウォーレン・クロマティ外野手の名前を持ち出し、こう訴えた。「プロ野球選手は夢を売るスポーツ。クロマティの3億円の年俸とどれだけ遜色があるのでしょうか」
一蹴された。吉国コミッショナーは「日本と米国では所得の体系が違う。だから私は大リーグの(選手有利の)調停の様子や年俸を見ても参考にしない。確かにサラリーマンでも日米の賃金格差は大きいですよ。日本の一流企業の社長と米国の社長の年収は2桁ぐらい違うからね。なにも野球選手だけに賃金格差があるわけじゃない」と発言。最終的には3月8日に中日球団提示の2億2000万円で決着した。長い闘いがようやく終了した。
中日球団関係者は「どうしてクロマティのことなんて言ったのだろう。落合より安い年俸でいい成績を残している外国人選手もいるのに…。あれで落合は不利になった」と冷ややかに分析し、球界内には「落合は球界全体から評価額を出してほしかっただけ。自分の格付けのために調停委員会を私物化した」と憤る声も。実際のところ、調停にかけることは伊藤球団代表と落合の間では、かなり早い段階に決まっていたそうだが、それにしても3月までもつれ込むとは…。
ちなみに落合はそんな中で迎えた平成3年シーズンで本塁打王に輝いた。打率と打点は、いずれもリーグ2位の成績でオフには3億円プレーヤーになった。いやはや、まさに恐るべきオレ流だった。












