悔し涙が報われた! 完全アウェーの決勝戦で米国撃破

2020年05月15日 11時00分

正田耕三氏

【正田耕三・野球の構造(12)】オリンピックで日本人選手が決勝に臨むとなれば、その競技にあまり興味がない人でもテレビ中継にくぎ付けとなることでしょう。しかし、僕の出場した1984年ロサンゼルス五輪の野球は決勝戦でも生中継されませんでした。予選も含めてテレビで報じられるのは「きのうの結果」として。それでもこうして当時のことをメディアで取り上げてもらえるのは、それだけインパクトがあったからでしょう。

 試合は壮絶なものでした。3回にのちに巨人でもプレーするシェーン・マックのソロ本塁打で米国が先制。5万5235人の大観衆を収容した会場のドジャー・スタジアムは「USA」コールの大合唱でしたが、4回に流れが変わりました。先頭の僕が四球で出塁し、荒井幸雄と広沢克己の連続適時打で逆転。5回にも二死走者なしから僕の四球を起点に嶋田宗彦の適時打でリードを広げ、8回には先頭打者で左前打を放ってチャンスメークし、勝利を決定づける広沢の3ランの呼び水となりました。

 投手も先発の伊東昭光が7回途中まで強打の米国打線を1点に抑え、宮本和知―吉田幸夫さんの必勝リレーで逃げ切り勝ち。完全アウェーのドジャー・スタジアムで僕ら全日本チームは世界の頂点に立ったのです。公開競技にもかかわらず、国際オリンピック委員会のサマランチ会長がわざわざ表彰式に来て僕らに金メダルをかけてくれたのは、それだけ注目度が高かったからでしょう。

 グラウンドで選手に胴上げされた松永怜一監督は満面の笑みを浮かべていました。前年のアジア選手権でロサンゼルス五輪への道を絶たれ、当時全日本の監督だった石井藤吉郎さんが悔し涙を流してから1年。それまで重ねてきた苦労が報われた瞬間でもありました。松永監督もよほどうれしかったのだと思います。メダルをもらえるのは選手だけなので、帰国後にコーチの分と合わせて金メダルのレプリカを作ったとも聞きました。

 僕ら選手に対する注目度も、出発前とは大きく変わりました。解団式をはじめ、各種祝賀パーティーが目白押し。どこに行ってもちやほやされるようになりました。驚いたのが、1週間の休みをもらって和歌山の実家に新幹線を使って帰った時のことです。

 祝賀会の予定もあったので全日本のブレザーを着ていたのですが、自分で購入した指定席に座っていると、車掌さんから「ロスで金メダルを取った正田さんですよね」と声をかけられたのです。

「オリンピックではご苦労さまでした。今日は座席に余裕もありますので、グリーン車の方にお座りください」

 生まれて初めて乗ったグリーン車。自分で自分を褒めてあげたくなった僕は、車内販売のワゴンを押してきたお姉さんに「ウナギ弁当を1つちょうだい」と言って、財布から1万円札を抜き出しました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。