ベーブ・ルースの“力水”も通じなかった沢村栄治の快速球

2019年12月07日 11時00分

巨人軍不滅の大投手・沢村栄治の銅像

【ネット裏・越智正典】職業野球の開祖、巨人軍不滅の大投手、沢村栄治が3度目の「召集」でフィリピンのレイテに向かう途中、台湾沖で輸送船が雷撃されて「戦死」したのは「公報」によると昭和19年12月2日のことである。日本の敗色は濃く、10月25日、神風特攻隊が出撃した。

 沢村は、いまは町の人々が一誉坊(いちょぼ)と呼んで来た赤門寺に眠っている。27歳の生涯だった。

 近鉄を宇治山田で降り駅前広場に出ると明倫商店街。アーチをくぐって少し歩いて行くと総2階の立派な家。沢村家である。夏はかき氷、冬はうどんの店、小田屋である。

 栄治少年は学校から帰ってくると、ソロバン塾へ行く時間がくるまで家の前の寺の石塀にボールを投げていた。明倫小学校のエース。宇治山田商業、名古屋軍の二塁手、小阪三郎は「明倫小学校とタイガースの“酒仙投手”西村幸生さんの厚生小学校は『豆早慶戦』でしたよ。栄ちゃんは大人たちが勝て勝てと騒ぐと、ときどき、もぎりましてね。あっ、伊勢の方言ですわ。ツムジを曲げてわざとフォアボールを三ツ。それから三者三振を取るんですわ。明倫小学校は京都の岡崎公園での第2回摂政宮杯全国少年野球大会に三重代表で行って評判になったんですわ」

 沢村がしかし京都商業に進んだのは、叔父伊東藤四郎が京都商業の洋服商だったのである。

 昭和9年、全日本監督市岡忠男はベーブ・ルースら全米軍と戦う読売新聞社主催の第2回日米野球のチーム編成を始めていた。この全日本が大会後に誕生する日本の職業野球第1号球団、大日本東京野球倶楽部、巨人軍の母体となるのである。6月、市岡は京都愛宕山で静養中だった高松中、早大の名二塁手、三原脩を訪ねて契約。巨人軍契約第1号選手。市岡はセンターライン固めから着手した。

「アメリカを倒すには歳が若く、快速球投手でなければならない」。市岡が沢村と旭川中(旭川東)のビクトル・スタルヒンを獲得するのは秋も深まってからである。バンクーバーをエムプレスオブジャパン号で発った全米軍は、11月2日正午、横浜4号岸壁に着いた。日本じゅうが湧いた。4日、神宮球場で壮麗な入場式。

 11月20日、富士山がもう雪化粧の静岡草薙球場で第8戦。先発は沢村とアール・ホワイトヒル。沢村は1回、チャーリー・ゲーリンジャー、ルース、連続三振。2回、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス連続三振。5回を終わって0対0。被安打1(ルース)。7回、ルース、ピッチャーゴロ。巨人軍初代マネジャー飯泉春雄は「ルースは水道の水を呑んで出て行った。“力水”も通じなかったんだ」。次のゲーリッグに第1球快速球。第2球「懸河のドロップ」。打球はライトスタンド下段、果物売店の前に落ちた。0対1であったが、沢村の世界最強軍から9奪三振は全米に打電された。翌昭和10年、巨人は第1回渡米遠征。売り興行で110試合も戦えたのは奪三振9の快投ゆえである。沢村はハネ発ちの転戦で21勝8敗であった。

=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

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