【赤坂英一 赤ペン!!】何を聞いても「楽しみです」「楽しかったです」としか答えない。MLBオールスター戦出場以来、大谷翔平に改めてそんなイメージが定着しつつある。

 その最たる例が12日(日本時間13日)、ホームラン競争で、大谷が初戦敗退した後のインタビュー。聞き手のアナが「悔しくなかったか?」と何度食い下がっても、大谷は「楽しかったです」と答え続け、最後はアナが「私は悔しかったです」と言うしかなかった。

 大谷の日本ハム時代、スポーツ総合雑誌「ナンバー」の仕事で私が取材した時も「楽しかったです」を繰り返された。花巻東高校2年でケガ(股関節の骨端腺)した時期について聞いたら「あのころは寮の生活が楽しかったです」と言う。

 当時、佐々木洋監督は同級生と相部屋の第1寮から下級生の多い第2寮に大谷を移し、十分睡眠を取らせるため、個室に入れていた。16歳の少年にとっては満足な練習もできず、寂しさが募る状況のように思えたが…。

「楽しかったです。家に帰りたいという人もいましたけど、僕は、そんなことはなかったです」

 上下関係に神経を使うことはなかったのか。

「先輩はいい人ばかりでした。上級生とも下級生とも仲良くしてたので、気を使うこともなかったし、楽しかったです」

 無論、現実はそんなに楽しかったことばかりではないはずだ。大谷が一番苦労したのは増量である。このケガをしていした時期、佐々木監督に他人の2~3倍、食事を取るよう命じられた。

「大変でした。無理やり食べさせられたりしてましたから。もともと、小食で、食べるのは得意じゃなかったんです」

 高3夏は岩手県予選で高校球界最速の160キロをマークしながら、決勝で5失点して甲子園に出場できなかった。試合後は人目もはばからずに号泣している。

 しかし、そうした苦いはずの思い出も含めて「高校は楽しかった」と大谷は言った。日本ハム時代には同級生が試合観戦に来るたび、彼らと思い出話をすることが「最高のリフレッシュ」になっていたそうだ。

 ちなみに、筋力トレーニングに熱心だったのも高校時代から。ベンチプレスで人一倍重いバーベルを上げるだけでなく、寮では人体構造や動作解析に関する本を熟読。ここの骨はこうで、ここの筋肉はこうだと、同級生に楽しそうに説明していたという。

 大谷が尊敬するイチローは自ら「努力を続けられる天才」と称した。しかし、大谷は「努力を楽しめる天才」なのかもしれない。

☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。