【平成球界裏面史 近鉄編134】生え抜きではないが、近鉄への移籍で人生を変えた強打者が存在する。平成13年(2001年)、近鉄が球団最後のリーグ優勝を飾った9月26日、プロ野球史上初の劇弾を放った男・北川博敏がその人物だ。

野村監督の子息・カツノリ(左)のトレード加入も北川に影響した(2000年6月)
野村監督の子息・カツノリ(左)のトレード加入も北川に影響した(2000年6月)

 北川は埼玉・大宮東高で3年時に主将を務め、夏の埼玉県大会決勝戦で本塁打を放ち同校初の甲子園出場に貢献。一塁、三塁手、捕手など複数ポジションを守る起用さを評価されていた。卒業後は東都大学リーグの日大に進学。2年秋には門奈哲寛(のちに巨人)とのバッテリーで真中満主将(のちにヤクルト)の下、リーグ優勝も経験した。

 捕手としてレギュラーに定着した3年春のリーグ戦では、打率4割7分1厘で首位打者を獲得しベストナインにも選出された。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、4年時には主将、日米大学野球日本代表にも2年連続で選ばれ平成6年(1994年)ドラフトで阪神から逆指名2位指名を受けプロ入りした。

 打てる捕手としての期待を一身に受けたものの、当時の阪神には関川浩一、矢野輝弘と打てる捕手が在籍。平成10年(98年)は岡田彰布が二軍助監督に就任し平成15年(03年)、平成17年(05年)にリーグ優勝の立役者となる濱中治、関本賢太郎とともにファームのクリーンアップを担った。

トレードで近鉄に移籍した湯舟敏郎(左)、山崎一玄
トレードで近鉄に移籍した湯舟敏郎(左)、山崎一玄

 だが、一軍出場機会に恵まれず平成12年(00年)には野村克也監督の子息でもあるカツノリのトレード加入もあり10試合8打席(7打数無安打)にとどまり、オフに湯舟敏郎、山崎一玄と共に酒井弘樹、面出哲志、平下晃司との3対3のトレードで近鉄に移籍することとなった。

 ただ、近鉄で二軍監督、一軍監督を歴任していた梨田昌孝は北川の打撃力を評価。出場機会にも恵まれない北川の獲得を編成に訴え積極的に獲得に動いた。北川自身もこれをチャンスと捉えた。平成13年(01年)は1月4日に藤井寺球場で自主トレを開始し「こんなにバットを振って新たなシーズンに臨んだことはない」と言うほどに意気込んだ。

 北川は新天地で一軍に定着すると、4月28日に7年目にしてプロ初本塁打を記録。29歳の誕生日でもあった5月27日は生涯初のサヨナラ打を放ち、お立ち台で号泣した。その2週間後にもサヨナラ打を記録。さらに、9月24日の西武戦(大阪ドーム)でも代打として貴重な一打を放つことになる。

松坂大輔から55号を放ったローズ(2001年9月)
松坂大輔から55号を放ったローズ(2001年9月)

 首位・近鉄は、5連勝中で2・5差で迫る西武と最終28回戦を戦う流れとなっていた。相手の先発はエース・松坂大輔。3回に西武が3点を先制するも、中盤に近鉄も盛り返す展開。2点を追う5回は、タフィ・ローズが当時のシーズンタイ記録となる55号本塁打で追いすがった。

 ただ、展開的には西武ペースでゲームが推移し9回は、門倉健一がスコット・マクレーンに39号ソロを浴び2点ビハインドとなっていた。9回、近鉄の最後の攻撃は先頭打者の的山哲也に代わって代打・北川。梨田監督は「2点差で松坂。それでも不思議と追い詰められた感じはなかった。北川が出てくれたらローズまで回るか…」などと、考えを巡らせていた。そして、ここで北川は結果を出すことになる。