【中島輝士 怪物テルシー物語(82)】2011年から3年間、私は台湾プロ野球の指導者として現地で生活し、様々な経験を積みました。私は本当に恵まれているなと思ったのは人々との出会いとご縁です。統一ライオンズの打撃コーチ1年目だった11年には、台湾のレジェンドと言われる強打者である張泰山が興農ブルズから統一に移籍してくるというタイミングがありました。

 泰山は台湾体育学院を卒業後、1995年にCPBLの味全ドラゴンズに練習生として入団。翌96年には正式に選手登録され主力選手として活躍を始めました。プロ1年目の成績は94試合に出場し16本塁打、72打点、打率3割3分3厘。新人王を獲得しています。

 97年から99年はチームの3年連続優勝に貢献。ところが入団した味全が解散してしまうことになり、00年から興農ブルズの一員となりました。そこから11シーズンを興農でプレーするのですが、この期間が泰山の全盛期ということになります。

 03年には100試合にフル出場し28本塁打、94打点、打率3割2分8厘。この年から06年までの4シーズンで本塁打王を3度獲得しています。

 ということもあり、国際大会では04年アテネ五輪の台湾代表に選ばれています。06年の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の台湾代表に選出されています。同大会では阪神の林威助に4番を譲ったものの、自身は5番・指名打者として出場。同年のドーハアジア競技大会の代表にも選出され優勝に貢献しています。

 泰山のお話の途中ですが、06年の台湾代表で4番を打った林威助は野球留学で福岡県の柳川高でプレーしています。つまり、私からすれば高校の後輩ということになります。こんなにも時代を経て外国から母校で学び、NPBの世界でプレーしてくれる選手が現れる時代になったんだと思うと、時の流れの早さを実感します。

 泰山のお話に戻ります。興農時代を経て11年から統一でプレーすることになり、日本人コーチの私とも出会うことになります。台湾のレジェンドですから、もちろんのことですがプライドだってあったでしょう。私の見立てでは野球に関しては粗削りで、修正すべきポイントはいくつも見えてはいました。

 それでも、ああだこうだと、直接的に指導して修正しようということはしませんでした。なぜなら、今のこの打ち方で台湾リーグでは結果を残し続けているからです。本人が求めてきた時以外には私の方から進んでアドバイスをすることはありませんでした。

 ただ、スーパースターとはいえども聞く耳を持った選手でした。当時の年齢で35歳くらいだったですかね。年齢的にもちょうど成熟していたタイミングでもあったからでしょうか。私の話を受け入れてくれて、反発するようなことはありませんでした。

 泰山は私が渡台してから監督を退任するまでのシーズン、全てで一緒に関わりを持ってくれた選手の一人です。私が退任した直後のタイミングだった13年8月9日の兄弟エレファンツ戦で2安打を放って台湾球界初となる通算2000安打を達成しました。

 次回も、もう少し張泰山のお話を続けたいと思います。