【中島輝士 怪物テルシー物語(83)】前回に引き続き、台湾球界の至宝・張泰山のお話を続けたいと思います。私がCPBLの統一ライオンズで指導者として従事していた2011年から13年の3シーズン、戦力として活躍してくれてはいました。しかし35歳を過ぎたタイミングということもあり、全盛期と比べると成績は下降気味でした。

 キャリアハイと言えるシーズンは興農ブルズ時代の2003年でしょうか。シーズン全試合の100試合に出場し28本塁打、94打点、打率3割2分8厘。単純には比較はできませんが、160試合以上あるMLBや140試合以上を戦うNPBの試合数からすれば、立派な数字だと思います。日本のイメージだと45本塁打、130打点くらいの破壊力と言っていいでしょう。

 ただ、私がコーチ、監督として一緒に過ごした時代は、11年には118試合で14本塁打、74打点、打率2割8分5厘、12年は117試合で17本塁打、96打点、打率3割3分3厘、13年は119試合で9本塁打、90打点、打率2割8分9厘という成績でした。本塁打に関しては下降線でしたが、打点に関しては経験を積んだベテランの味と言いましょうか、さすがの数字を残しています。

 そして、私が日本に帰国後の14、15年は出場試合数も減少し本塁打も打点も当然、数を減らしていました。その頃、私はというと四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスの指導者となっていました。14年から野手総合兼打撃コーチという肩書でチームに加入していました。同年にはDeNAのコーチに転身した、日本ハムの後輩でもある島田直也監督の後任として、15年から監督に就任するという流れになっていました。

 15年前期は3位、後期は2位でチームとしての年間総合優勝3連覇の目標は達成できませんでしたが、台湾リーグに続いて監督という立場で独立リーグの野球を経験させてもらいました。このシーズンにはリーグが編成した北米遠征選抜チーム「四国アイランドリーグplus ALLSTARS」(カナディアン・アメリカン・リーグと対戦)の監督も経験させてもらいました。このお話はまた、あらためて紹介させてもらおうと思います。

 さて、張泰山なのですが16年1月に独立リーグ・徳島入りすることが決まったんです。泰山は統一で15年シーズンをプレーした後、チームからコーチ就任の要請を受けましたが断って、以前統一の監督だった私が監督を務める徳島でのプレーを希望したんです。

 当初、私は泰山には四国独立リーグの他チームに預かってもらおうと考えていました。というのも、徳島のコンセプトとしてNPB選手を輩出し続けるという目標があったからなんですね。引退した大物選手の獲得には積極的ではなかったんです。しかし、泰山が「私と一緒にプレーしたい」と希望してくれたことを意気に感じ、受け入れることにしました。

 すると、台湾メディアでは大騒ぎになりましたね。記者会見もすごい規模ですよ。たくさんの台湾マスコミが大挙して取材に来てくださいました。徳島では1シーズンのみの在籍で53試合に出場し3本塁打、24打点、打率2割3分6厘という数字でした。年齢も40歳前だったのかな。大活躍というわけではありませんでしたが、いい思い出でした。