【取材の裏側 現場ノート】「答え合わせは5年後に」。球界内で広く浸透しているドラフト会議にまつわる格言だ。2020年10月26日。私は会社の指示を受け、近畿大学のドラフト会場へ取材に行っていた。

 当時はまだ「佐藤輝」ではなく「近大・佐藤」。4球団競合のクジを引き当て、力強く右の拳を突き上げた矢野監督(当時)とは対照的に、終始表情を動かそうとしなかった佐藤輝の様子が、今も記憶に焼き付いている。あれから5年。虎の背番号8に関する答え合わせなど、今さらこの場で触れる必要などないだろう。

 優勝関連企画で阪神・嶌村聡本部長の合同インタビューを行った際にも、話題の大半は20年の「神ドラフト」が占めた。「あの時は本当に何もかもがうまくいった。矢野元監督が見事に当たりくじを引いてくれて、その後もトントンと…」という話を聞きながら、ふと、悪夢のような一つの仮説が脳裏をよぎった。「もしあの時、矢野さんがクジを外していたら」と。

 外れ1位で他に評価が高かった即戦力投手を指名していれば、2位・伊藤将はあったのだろうか。この年リーグ2位だった阪神はウエーバー順でも不利な立ち位置。一つのボタンの掛け違いが、バタフライエフェクトのように12球団に連鎖していれば、5位・村上はあったのだろうか? 6位・中野も地元球団の中日がリストアップしていたと聞く。

 1992年のドラフト会議で「残り2分の1」だった松井秀喜(巨人)の当たりくじを中村勝広監督(当時)が引いていれば、阪神の暗黒時代はもう少し早く終わっていた可能性もある。そうなれば野村克也監督や、星野仙一監督の就任はあったのだろうか? 一枚の当たりくじを狙う指先の気まぐれで球史はあまりにも大きく動く。人知だけでコントロールすることなど絶対に不可能だからこそ、ドラフト会議には魔力と魅力が詰まっている。

入団会見で野村監督(左=当時)と握手する1998年の阪神ドラフト1位・藤川球児
入団会見で野村監督(左=当時)と握手する1998年の阪神ドラフト1位・藤川球児

 私の知人の横浜ファンは今も「98年のドラフト会議で松坂を指名できていれば、チームの歴史は大きく変わっていた」と悔いる。同年に猛虎に1位入団したのは高知県出身の藤川球児という名の高校生。松坂(西武)、上原(巨人)、福留、岩瀬(ともに中日)ら他球団の上位指名選手たちが目覚ましい活躍を見せる中、いつまでたってもパッとしない自軍のドラ1に、暗黒時代ど真ん中の虎党もノムさんもタメ息をついていた。

 あれから27年。こちらの答え合わせも、この場で触れるまでもない。猛虎を圧倒的な強さでリーグ制覇に導いた青年指揮官は今、ポストシーズンを見据え「みやざきフェニックス・リーグ」で陣頭指揮を執っている。(阪神タイガース担当・雨宮弘昌)