【平成球界裏面史 近鉄編111】平成16年(2004年)、4シーズンに渡って在籍した近鉄バファローズがオリックスとの合併のため消滅。日本人選手はおろか、球団スタッフたちの去就すら不透明な状況が続く中で外国人助っ人の立場は不安定だった。2年連続で2桁勝利を挙げていたジェレミー・パウエルとて、その立場が安泰というわけではなかった。

 それでも平成17年(05年)から合併球団のオリックスバファローズの指揮を執ることになった仰木彬監督は近鉄でローテを守っていたパウエル、ケビン・バーンの両投手の獲得を強く希望。オリックスのエースで選手会長だった川越英隆、バーンとともに先発三本柱の役割を担うことを期待され、オリックスバファローズの一期生としてメンバーに加わった。

川越英隆(2007年11月)
川越英隆(2007年11月)

 仰木監督といえばオリックスブルーウエーブの監督時代、鈴木一朗外野手を「イチロー」に、佐藤和弘外野手を「パンチ佐藤」と命名したアイデアマン。あのMLBのイチローの誕生は、仰木監督のアイデアなくては生まれなかったかもしれない。仰木監督は期待の印にパウエルとバーンそれぞれに「JP」と「ケビン」という登録名を提案。2人ともに快く受け入れ、新生オリックスバファローズの盛り上げ役を買って出た。

 パウエルは仰木監督の期待通りの活躍ができたといっていいだろう。チームで唯一の規定投球回に到達し200イニングを消化。28試合全てに先発しチーム最多の14勝(12敗)で自身3度目の二桁勝利を経験した。ちなみに川越は24試合で6勝8敗。ケビンは22試合で4勝13敗と大きく負け越した。チームもシーズン中盤には3位とAクラスを守っていたが、最終的には西武に交わされ4位でBクラスという結果となった。

先発三本柱の一角だったケビン・バーン(2005年6月)
先発三本柱の一角だったケビン・バーン(2005年6月)

 また、パウエルは同年から始まったセ・パ交流戦では5月11日の巨人戦(東京ドーム)で、NPB史上交流戦での投手第1号本塁打を打っている。対戦相手は当時の巨人の左腕エースだった内海哲也。これにはパウエル本人もさすがに驚いていた。

「バッティングなんて得意なわけないじゃないか。エクスポズのあったア・リーグも近鉄のあったパ・リーグもDH制だろ。バッティング練習なんてちょっとしかしてないよ。でも、うれしいね。ホームランは打たれるより打つ方が」

 そんな思い出に残る日本での交流戦元年だったわけだが、セ・リーグのチームと対戦することでパウエルの評価は急上昇していた。特に巨人が補強リストに早くからリストアップ。シーズンオフとなりオリックスとの残留交渉が難航しているとみるや、すかさず高額オファーで獲得に動いた。

 パウエルとて日本での実績を認められ、ビッグクラブから声が掛かったことに悪い気がするわけがない。12月2日にオリックスから自由契約となると、約2週間後の12月15日には巨人入りが発表された。登録名に関しては「JP」から本名であるジェレミー・パウエルに戻すことも決めた。メジャーではつかめなかった100万ドル(当時で1億円ほど)を超える巨額の契約を、海を超えた日本で勝ち取ることになった。

応援団から絵馬を贈呈される仰木監督(2005年1月)
応援団から絵馬を贈呈される仰木監督(2005年1月)