【平成球界裏面史 近鉄編96】平成20年(08年)のオリックスは元近鉄のタフィ・ローズが引っ張っていた。前年の平成19年(07年)にはプロリーグから完全に離れ〝浪人状態〟。そのブランクが当然ながら心配されたが打率2割7分7厘、40本塁打、118打点で打点王という脅威の成績を残した。

なぜかローズのユニホームで現れたカブレラに突っ込むローズ(2009年4月)
なぜかローズのユニホームで現れたカブレラに突っ込むローズ(2009年4月)

 同僚となった元西武のアレックス・カブレラも打率3割1分5厘、36本塁打、104打点と打棒を発揮。グレッグ・ラロッカはケガで26試合の出場にとどまったが、テリー・コリンズ監督から「ビッグボーイズ」と名付けられた打線の活躍で、チームは2位という成績を残すことになった。

 ただ、いつまでも順風満帆という訳にはいかなかった。平成21年(09年)には大石大二郎監督体制となり「ビッグボーイズ」の低迷とともに、チームも沈んでいった。ローズは平成21年、4月26日の日本ハム戦で、榊原諒から史上12人目となる通算450本塁打を記録したが、その後に落とし穴があった。

コリンズ監督(右)と大石大二郎コーチ(2006年10月)
コリンズ監督(右)と大石大二郎コーチ(2006年10月)

 5月13日の西武戦で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨を骨折。長期離脱を余儀なくされた。復帰後の8月7日、ロッテ戦では通算300二塁打を達成。その20日後の8月27日、日本ハム戦では白井一行球審に暴言を吐き、現役最後でありプロ野球史上最多となる14度目の退場を宣告されている。

 ローズにとってNPB最後の試合となったのは10月5日の楽天戦だった。試合会場は近鉄時代から慣れ親しんだ京セラドーム大阪だった。平成21年(09年)の最終成績は84試合に出場し打率3割8厘、91安打、22本塁打、62打点。骨折の影響もあったが、なんともいえな中途半端な成績に終わった。ローズは翌日の同月6日には米国へ帰国した。

 オフの契約更改交渉では推定年俸3億円ほどから大幅減俸を打診され決裂。12月2日に球団から発表された次年度契約保留選手名簿に名前が掲載されなかった。そのまま自由契約選手として公示されたが、他球団から獲得オファーもなくローズ自身2度目の現役引退となった。

橋下府知事を表敬訪問した岡田監督(2009年11月)
橋下府知事を表敬訪問した岡田監督(2009年11月)

 その後、オリックスは元阪神監督の岡田彰布氏を監督に招いた。新たな時代へかじを切ることになる。ある意味で平成21年はオリックスにとっても転機になったシーズンだった。前年からローズ、カブレラ、ラロッカが全員残留し、楽天を自由契約になったホセ・フェルナンデスとも契約。過去に実績のある強力助っ人4人で通算本塁打が1014本塁打(平成20年終了時点)という超絶重量打線を武器に勝負に出た。
 
 しかも、ローズとカブレラは国内FA権を取得済みで外国人枠の適用外。4助っ人巨砲がずらりと並ぶ打線を編成することも可能だった。実際に3月17日の日本ハムとのオープン戦では1イニングで4人全員が本塁打を記録した場面もあった。開幕後もこの4人がスタメンに名を連ねることも多く、3番打者から6番打者までが超ヘビー級の打線。若手だった元近鉄の坂口智隆が1番を打ち、後続が返すというやや単調な攻撃パターンが目立った。

 見た目は大層に豪華な打線ではあった。だが、4月の後半から立て続けにカブレラ、ローズ、ラロッカ、フェルナンデスの順に死球による骨折に見舞われ打線が崩壊。代わりが務まる戦力も整えられず、助っ人4人の離脱後は深刻な貧打に悩まされ最下位フィニッシュ。シーズン後にはローズ、フェルナンデスが自由契約。残ったカブレラとラロッカも平成22年(10年)には自由契約となった。

 平成7年(96年)から1年のブランクを除いて13シーズン、平成21年(09年)までをNPBにささげたローズ。そのうち8年間は近鉄の主砲として球界で確固たる地位を築いた。「日本に来た時にはこんなに長くプレーするものとは思っていなかった。いい仲間、環境に恵まれて本当に幸せだった」。これで日本とはお別れだと思われたが、ローズにはまだ近鉄、日本とのご縁が続くことになる。