【昭和~平成スター列伝】故ジャイアント馬場さんの命日1月31日に後楽園で開催された「ジャイアント馬場没25年追善記念大会」で、全日本プロレス一筋に歩んできた太陽ケアの引退試合が行われ、31年のキャリアにピリオドを打った。
祖母が日本人だったケアは1994年6月にハワイ滞在中だった馬場に入門を直訴。馬場は当初会うことを嫌がっていたが、ハワイアンにもかかわらずスーツ姿で現れたケアの好青年ぶりに驚き入門を快諾。帰国時に帯同しそのまま全日本に入門した。その後も馬場には息子同然の扱いを受けた。
同年11月に本名のマウナケア・モスマンでデビューするとジュニアで頭角を現し、98年からはヘビー級に転向。2000年6月の三沢光晴らノア勢の大量離脱には追従せず、太陽ケアに改名して王道マットに残留し、その後は世界タッグや3冠戦線に加わった。ケガや大物との戦いで苦しみながらも2006年にチャンピオン・カーニバルを初制覇し、7月3日の大田区体育館で小島聡を撃破し、デビュー12年目で悲願の3冠王座を奪取した。
「文字通りの新旧王道対決だった。新日本時代に培った闘魂三銃士の必殺技を駆使する小島に、ケアは馬場さんの王道殺法で対抗。河津落とし連発、脳天唐竹割り、さらに波乗りスープレックス3発だ。それでも3冠V8を成し遂げた小島は奥の手を解禁。蝶野のSTF、武藤のドラゴンスクリューから足4の字固めのフルコース。さらには破壊王・橋本の垂直式DDTで追い詰めた。しかしここでケアに馬場魂が再び宿る。カウンターのランニングネックブリーカードロップで逆転。最後はリバース式ハワイアンクラッシャー、H5Oで3カウントを奪った」(抜粋)
「馬場さんのためにも勝ちたかった」と涙したケアだが、和田京平名誉レフェリーは意外な事実を明かした。「馬場さんは時間をかけてケアを3冠王者にしてハワイで凱旋興行をやろうとしていたんだ。その時は体の具合が悪かったので、協力を仰ぐためカナダまでビンス・マクマホンに代理人を出したんだよね。レスラーとしてのセンスは馬場さんのお墨付き。あの武藤(敬司)さんが初めて戦った時(01年1月)に『何だよ、コイツ。こんなにうまい選手だったのか!』って驚いたほどだった。ハワイ興行は馬場さんが亡くなったから実現しなかったけどね」。13年からはスポット参戦となるが和田氏は「俺はWWEに行くんじゃないかと思ってた。力量はあったし、もっとチャンスがあってもよかった。でも最後まで馬場さんへの恩義は守ったよね」と語った。
今後はハワイで子供たちに格闘技を教えながら、新たなビジネスに取り組むという。3冠は合計3回、世界タッグは7度戴冠。大量離脱後の王道マットを支えた貢献者の1人だった。(敬称略)













