【キューティー鈴木・白い青春(14)】1992年4月にJWPを旗揚げし、4か月後ジャパン女子プロレスの同期で同じ埼玉県出身の尾崎魔弓と初めてタッグベルトを巻きました。

ダイビングフットスタンプを見舞うキューティー(左)と尾崎(94年3月)
ダイビングフットスタンプを見舞うキューティー(左)と尾崎(94年3月)

 尾崎とは地元が近かったので、ジャパンに入門したばかりのころはいつも一緒に道場へ通っていたんです。初めて護国寺の合宿所に入寮するときも、赤羽駅で待ち合わせて2人で一緒に向かったんです。尾崎の方が一つ年が上だけど、2人とも親元を離れて生活するのは初めてだったから不安いっぱいで「練習続けられるかな」とか話してたら、悲しくなって2人とも電車の中で大泣き。でも尾崎が「大丈夫。私たちなら頑張れる」って鼓舞してくれて、私も「一緒に頑張ろう」って声を掛け合って合宿所に向かいましたね。

 その後、練習生のときは、尾崎はできる組で私は落ちこぼれ組だったから練習も別々。尾崎がヒールになってからは話す機会が減ってしまいましたね。でもJWP旗揚げの合宿でより仲も深まり、これまで支え合ってきた尾崎とタッグベルトを取れた時は、歴史として後世に残るものが一緒に取れてよかったなと思いました。

 尾崎は試合では頼りになる存在だったけど、私生活では人に頼りがちでめちゃくちゃビビりでした。写真集の撮影で海外の島に行き、スキューバダイビングをすることになったんです。私は経験があったからやる気満々だったけど、尾崎は船から手を離せないくらい怖がってて一緒にドラマに出たときも、ひと言ずつくらいしかセリフないのに尾崎は緊張しちゃって何も言えなくなって。NGを連発してあまりにもひどいから、私の手に尾崎のセリフを書き、半歩前に立って見せてあげたこともありました。試合していると強いし、今はチェーンなんて物騒なもの持ってるけど、かわいいところがあるんですよ。

 尾崎とケンカ? 一度もないですね。あ、でも1回だけ怒られたことはあります。海外で撮影するとき、ホテルで2人きりになったんです。ちょうど尾崎のお父さんが亡くなったばかりの時期で。私はプロレスラーになってから、ほとんど実家に「帰ってない」と話したら「お前、たまには実家に帰んなよ。親もいつまでも元気でいるわけじゃないからね」って。それでも忙しくてあまり実家に帰れなかったんですけど、尾崎の言葉はよく覚えてます。

 タッグベルトを取ってからも全女(全日本女子プロレス)の選手と防衛戦をやったり、尾崎とは米国にも試合しに行ったりと、いろんな所に行きましたね。今でもたまに試合観戦に行くと、息子のこともかわいがってくれます。(ダイナマイト)関西も含めてプロレスを通して一生の仲間に出会えたことは宝ですね。