【平成球界裏面史 近鉄編45】平成30年(2018年)、最後の“近鉄猛牛戦士”坂口智隆はヤクルト移籍3年目を迎えていた。15年オフに戦力外同様の評価を受け自由契約を選択し退団。新天地での勝負に出て16年は155安打、17年も155安打と完全復活すると、年俸も1億円台を再び突破していた。
それでも下位に低迷していたチームはオフに補強に動いた。それはヤクルトを経てメジャーで6シーズンを過ごしてきた青木宣親外野手(前年までニューヨーク・メッツでプレー)だった。生え抜きのレジェンドの復帰に燕ファンも沸いた。
春季キャンプ中にチームへ合流した青木に関し、当時の小川監督はヤクルト在籍時と同様に正中堅手に据える構想を明言。当時は左翼・バレンティン、右翼・雄平(高井)という布陣だったため、坂口のポジションが宙に浮く形となった。
当時の坂口は「青木さんがヤクルトに帰ってくるからってセンターのレギュラーをどうぞなんて、ポジションがかぶっている選手なら誰も思わないでしょ。自分は自分の野球をして準備をするだけ」と冷静に話していた。だが、心の中で出場機会が減少するのではという不安がなかったわけではない。
ただ、風向きは思わぬ形で変わった。このシーズン、ヘッドコーチに就任した宮本慎也はここで驚きのプランを立てた。181センチと高身長の坂口を一塁で起用する構想を実行。当初は「可能性としてやってみようかということ」と話していたが本気だった。プロ入り以降、外野手しか経験のない坂口にいきなり一塁守備を命じたのだ。
坂口がファーストを守ったのは中学生時代以来だった。草野球ではなく、プロ野球の公式戦に出場するための一塁守備を34歳にして仕込まれたわけだ。
「試合に出られるんやったらどこでもええんすよ。青木さんが帰ってきたからってなんで俺がファーストやねんなんて思って野球やっとったらアカンでしょ」
沖縄・浦添の黒土で泥まみれになった。その結果、見事に定位置を掴んだ。18年、坂口は一塁で98試合に出場し守備率9割9分4厘。本職の外野でも71試合で10割の守備率と健在をアピールした。
「一塁というポジションは色んなプレーに絡むのでゲームの流れに入っていきやすいというのはあるかも。まあでも、慣れへんから必死よ」とがむしゃらにプレーした結果、好循環も生まれた。打率3割1分7厘、出塁率4割6厘はキャリアハイだった。
3月30日のDeNAとの開幕戦(横浜スタジアム)で「6番・一塁手」としてスタメン起用されたシーズンスタートから139試合に出場。夏場以降は1番・坂口、2番・青木で固定され2人の長短打でいきなり1点という場面も目立った。他球団スコアラーは「非常に嫌な並び」と警戒したほどだった。
オフには19年からの年俸変動制の推定年俸1億4000万円をベースの3年契約を締結。ヤクルトに移籍した3シーズンで155、155、161と重ね471安打に積み上げた。だが、この頃の坂口は平成から令和へと変わる次シーズンに新たな試練に見舞われることを知る由もなかった。
















