【平成球界裏面史 近鉄編25】平成21年(2009年)から中村紀洋は楽天でプレーする道を選んだ。07年からテスト入団で2年間在籍した中日を離れ、FAで移籍する形となった。
こだわりのあった三塁のポジションを用意された。野村克也監督から必要とされ、若いチームに迎え入れられた。ただ、度重なる故障に泣かされるなど在籍2年で戦力外。そのオフに行われたトライアウトを受けることなく、他球団のオファーを待った。
プレーできるか試される立場ではない。この時点で378本塁打を重ねてきたスラッガーは、あえて必要としてくれる球団からのオファーを待った。
兵庫県内、大阪府内の施設などで自主練習を続けた。多くの関係者が練習環境を整えることに協力してくれた。練習施設で野球少年たちと遭遇すると、求められるがままにサインに応じた。
「正直、どうなるかはわからへんよ。どこかから水面下でオファーが来ているとかもない。自分をしっかり持って、準備してどこかから声がかかるのを待つだけ」
泰然自若。そんな雰囲気を作りながらも、中村の内心は不安でいっぱいだった。06年オフにオリックスとの契約がまとまらず、07年キャンプ中に中日に移籍した時とは状況が違う。「(所属球団なしの状況に)もう慣れたよ」と笑っていたが、楽天から戦力外を受けた現実は重かった。
子供たちは父が野球選手であることを理解できる年齢に成長していた。意図して父とは野球の話題を避けていることも分かっていた。リビングのテーブルにいつも置いてあったスポーツ新聞を、家族が目の届かない場所に隠していることも知っていた。
「子供たちや家族に気を使わせているなというのがつらいな。この時期にパパが家にいるのはおかしいということも分かってるしな」
2月のキャンプインの時期になっても他球団から中村へのオファーはなかった。11年のシーズン開幕を迎えても所属球団はなかった。
「トレード期限まではしっかり準備して待つ。でも最悪、今シーズンは1年間、浪人も仕方ないと思ってる」
そう話していた頃にはもう交流戦が始まっていた。すると、中村の携帯電話に突然の一報が入った。5月22日だった。電話の主は横浜ベイスターズ・加地球団社長だった。中村からすれば「予想だにしてなかった」というシーズン途中での入団オファー。電話の翌日の23日に入団発表され、24日には球団事務所で入団会見が行われた。
引っ越しの用意さえままならなかった。本人も寝耳に水の電撃入団。体を動かす準備には抜かりなかったが、そう簡単に感覚が戻るものでもない。ファームでの調整を行い6月8日には一軍登録という突貫工事。いかにベランとはいえ新天地で即、大活躍という風にはならなかった。















