【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(38)】今となっては思い出ですが、東海大一高野球部での下級生としての生活はシ烈を極めました。よくプロ野球選手で強豪校出身のみんなが口を揃えていうじゃないですか。「1億円もらってももう一度やりたくない」って。それは同感ですね。

 上級生になったとき、つまり夏に3年生が負けて、2年生のわれわれの代になったときはうれしかったですね。その秋の県大会では決勝進出。打つ方でも4番を任せてもらって、高校通算20本くらいホームランも打たせてもらいました。

 当時、東海大系列の高校同士での試合もありましたね。系列校の序列というのがあって、ウチの高校には東海大相模も遠征してきてくれました。その中には後に東海大相模を全国優勝に導くことになる同級生の門馬敬治(現岡山・創志学園監督)もいました。

 僕に抑えられて敗戦するわけですが、全員正座させられてました。だって後にプロになる投手と対戦しているなんて、考えてませんもんね。

 先日、僕が指導している磐田南高と東海大甲府で練習試合をさせてもらったんです。すると校長先生が高校時代に野球部で同級生だったようで「お前に抑えられて監督にボコボコに怒られたよ」と話してました。もう、同級生が校長先生になる年齢なんだなって実感しましたね。

 そんなこんながあり、僕にも最後の夏が訪れます。1987年、3年生最後の静岡県大会です。結果的に僕たちは本当に悔しい負け方をしてしまいました。

 そのころには県内屈指の右腕として注目していただいて、優勝候補にも挙げられていました。ただ、4回戦で東海大工にサヨナラ逆転負けを喫してしまいます。

 9回裏二死で3点リードと勝利を目前にしながら、2失策などが重なりまさかの逆転負けでした。もう、僕の中では当時のことはあまり覚えてないんですよ。

 今こうやって治療院で施術をしていると、患者さんのお父さんに言われることがあるんですよ。40代後半から50代くらいの年代の方ですね。

「当時、静岡ローカルのテレビ中継で見てましたよ。ピンチでマウンドに野手陣が集まって、その輪が解けたとき、ロージンバッグを地面に叩きつけてました」って。

 最後、敗戦が決まった時にはグラブをマウンドに叩きつけてましたもんね。本当はそんなことしたらダメですよね。

 対戦相手の東海大工には後にダイエーの主力捕手となる吉永幸一郎、ベイスターズの救援投手となる五十嵐英樹がいました。県内では事実上の決勝とも言われた試合でした。県内では注目された試合とあって、今になって当時を覚えてくれている方々が存在するのはありがたいですね。

 今となっては僕自身が静岡朝日放送で高校野球のテレビ解説をさせてもらってるんですね。ダメですよ、グラブを投げつけるのはってみんなに言われます。

 ただ、あそこで負けてたから今があるわけなんですよ。勝って甲子園に行ってたらまた人生は変わったかもわかりませんからね。東海大系列の高校からは基本的に東海大に進学するのが基本なんですが、僕の場合は幸運でした。父の強い希望ということで特別に高校からプロに行かせてもらいました。だからこそその後、同期の長嶋一茂さんとの出会いもありましたし、人生は本当に何があるかわかりませんね。