【平成球界裏面史 イチロー編④】突出したスターになったことでチーム内で微妙な立ち位置となり、打撃を突きつめていくことで周囲との溝ができる。「イチローはすごすぎてついていけない」「サイン色紙がいつも山積みで大変だな」「あいつは特別だから」と声をひそめ、他の選手は距離を置くようになっていた。

藤井康雄氏の前でおどけるイチロー(1994年)
藤井康雄氏の前でおどけるイチロー(1994年)

 そんな中でイチローに声をかけていたのが、先輩で選手会長だった藤井康雄氏だった。食事やコンサートに誘ったりして少しでもストレスを軽減させてあげようと気遣った。「周りが声をかけにくくなったらチームのためによくないでしょ。だからいろんなタイミングで誘ってあげていたよ。自宅に呼んでカレーを出してあげたこともあったし、遠征中に六本木に連れていってあげたり…。僕にとっては人気が出てもかわいくて生意気な後輩でしたよ」(藤井氏)。そんな心遣いがうれしかったに違いない。

 グリーンスタジアム神戸での試合には父・宣之さんが愛知からいつも観戦に訪れていた。身の回りの世話をかねて合宿所にも顔を出し、報道陣の前でもイチローことをうれしそうに語る。小さいころから愛知のバッティングセンターに通わせ、二人三脚で野球と向き合わせた。プロ入り後もキャンプ地の沖縄・宮古島に筋肉疲労の湿布を送るなど愛息をサポート。神戸に来ることをライフワークとし、選手や関係者に「いつも息子がお世話になります」とあいさつして回る。遠征の際はイチローが自室で飼っていた金魚の餌をやりにやってきていた。

グラウンドで藤井康雄氏と語り合うイチロー(1999年)
グラウンドで藤井康雄氏と語り合うイチロー(1999年)

 プロになっても人目をはばからない〝溺愛〟ぶりをいぶかしがる声もあったが、藤井氏は「めちゃめちゃ腰の低い人。はじめは社会人なのに息子の職場にしょっちゅう来るのってどうなん? って思いましたよ。二軍の時からずっと来ていたから。でもイチローがあるのはそのお父さんのおかげですからね」と強固な親子関係に理解を示している。

球場から出てきたイチロー(左)と父・鈴木宣之さん(1998年)
球場から出てきたイチロー(左)と父・鈴木宣之さん(1998年)

 そしてイチローには神戸に「もう一人の父」がいた。毎晩のように試合後に通う三ノ宮の焼き肉店「牛や たん平」のオーナー・鳥巣富博氏だ。今ではプロ野球選手をはじめ著名人御用達の店に若手時代から通い、神戸の〝食の源〟としていた。カウンターの定位置に座り、鳥巣氏特製のサラダと徳島産の牛タン、スープと同じメニューを食し、コップ半分だけビールを飲む。食事後は合宿所で深夜のマシン打撃というのがイチローの夜のルーティンだった。

 鳥巣氏は公私にわたってイチローの面倒を見た。体調管理、私生活、恋愛、契約更改、メジャー挑戦などあらゆる相談に乗り、我が子さながらの愛情を注いだ。平成11年(1999年)12月にロサンゼルスで行われた弓子さんとの結婚式に親戚以外で唯一出席した〝私人〟でもあり、メジャー挑戦を視野に入れ始めた時期には来店した仰木彬監督から「考え直すように言ってくれませんか」と頼まれたこともあったという。

イチローが第一打席に向かう後ろでは弓子夫人は拍手、父・宣之さんはじっと目を閉じる(2001年)
イチローが第一打席に向かう後ろでは弓子夫人は拍手、父・宣之さんはじっと目を閉じる(2001年)

 マリナーズ移籍後、鳥巣さんは病気でこの世を去った。店の関係者はオーナーの遺志を継ぐようにオフの自主トレをサポートし、イチローもオリックス時代と変わらず連日、店に顔を出している。後に同店が神戸に姉妹店をオープンさせる際、イチローは平成20年(2008年)に打席に入るテーマ曲にした石川さゆりの「天城越え」をヒントに店名を「カルビ越え」と名付けた。愛し続けた神戸の街の〝もう一つの父子の絆〟がなかったらプロとしての成功はなかっただろう。