【デンジャラスクイーンの真実#31】WJは2003年3月に旗揚げしたものの、1年ちょっとでつぶれてしまいました。上がるリングがなくなってしまった健さん(佐々木健介)と私に「食えてるか?」と電話をくれたのが天龍源一郎さんでした。

天龍(手前)が窮地の北斗&健介をサポートした(04年2月)
天龍(手前)が窮地の北斗&健介をサポートした(04年2月)

 当時、健さんは手を骨折していて試合もできない状況でした。天龍さんは「マネジャーとかいないとやっていけないぞ」と助言をくれたのですが健さんは「人を雇う余裕はありません」。すると天龍さんは「母ちゃんがいるだろ。母ちゃんがやればいいんだよ」と。

 私は幼稚園に通う健之介と生まれたての誠之介、2人の子供を抱えていました。それに裏方の仕事は、やったことがありません。テレビ局の方に聞いて、いろいろ教わりましたね。屋号に名前を入れた「健介オフィス」を設立し、名刺をつくり「オファーがあったらお願いします」と各所にあいさつしました。

 ところが、私ではなく直接健さんにオファーがいくことがありました。「あなたと交渉するんですか?」と言われたことも…。プロレスラーだった私と交渉するのが嫌という空気を感じ、すごく悔しい思いをしました。

 でも逆に燃えたのです。「いつか私に連絡があったら断ってやろう」って。その後、ある団体からビッグマッチのオファーが届きました。「奥さん、何とかお願いできませんか」と言われたのですが、本当に「他のスケジュールが入っているので」とお断りしたことがありますね。

 古巣の新日本マットに健さんが上がることになったとき(04年1月4日に)東京ドームで「みっともねえ!」「出戻り!」と、健之介の耳をふさぐくらい罵声を浴びせられたのです。そのあと私が現場マネジャーになったのですが「女房なんか連れてきやがって」「帰れ!」ってブーイングがすごかった。

 04年10月9日の新日本プロレス両国国技館大会(※)は、私が大暴れしました(笑い)。あれは頭にきましたね。こんなことってあるんだな、バカにしているんだな、そんな感じでした。あの女房はおかしいと思われたかもしれませんが、いい経験になりました。

「新日本を出ていって会社がつぶれて戻ってきて、みっともねえ」って手紙が届いたこともあります。日本中が私たちを嫌っているんじゃないかと思うくらいでした。

 私は現役時代、ヒールになりたかったけど、これではただの嫌われものです。でも、私たちは食べていかなきゃいけなかった。「いいじゃん。石を投げられたって」。2人でそう言いながら試合に臨んでいたところ、あることがきっかけで風向きが変わったのです。

 ※胴締めスリーパーを決めたIWGPヘビー級王者・藤田和之の両肩がマットにつき2分29秒で健介が勝利。不透明決着に北斗が大激怒した。