【デンジャラスクイーンの真実#30】1998年、長男の健之介を出産した私はガイア・ジャパンに復帰し、日本初のママさんレスラーとして活動。そしてプロレスラー人生にピリオドを打ったのは、2002年4月7日の横浜文化体育館大会です。引退を決めた理由は前年の11月に、同い年の子供を持つ友人が亡くなったことでした。

引退試合で長与(手前)にスリーパーを決める北斗(02年4月)
引退試合で長与(手前)にスリーパーを決める北斗(02年4月)

 当時の私は健之介から「抱っこ」と言われても「健ちゃん、ママはお手々が痛いからダメなんだ」っていう日が続いていました。そんな日々を過ごす中、友人の死に顔を見て、こんな小さな子を残していくことは「どんなに無念なんだろう」という感情にとらわれたのです。通夜の帰り道に「辞めよう」と決意すると、すぐガイア・ジャパンに連絡を入れました。

 ただし、そこから1か月、2か月後、すぐに辞められるわけではないですから、会社に筋を通して翌年の4月に引退となりました。ラストマッチのカードは自分で決めようと思いました。同期の堀田祐美子もいるし、最後のパートナー、尾崎魔弓もいる。三田英津子、下田美馬もいる。それこそ神取忍もいる。私のプロレス人生にかかわってくれた方はたくさんいました。

 その中で自分の過去、現在、未来を表現する「相手は誰なんだろう」と考えて組んだ最後のカードが、北斗&里村明衣子VS長与千種&浜田文子でした。過去は長与千種。メキシコでグラン浜田さんの家に呼んでいただいたとき、小さかった文子も現在戦っている。未来の里村明衣子は「将来すごくなる」と思っていた選手です。そんなことを考えると「この4人じゃないかな」と思ったわけです。

 引退後の2003年は大変でした。健さん(佐々木健介)が新団体のWJ(※)に移籍したからです。このことは、いろいろなことを周りの方が言うし、当時は腹が立ったこともあります。ただ、私と健さんの意見はいつも同じなんです。私は「選んだのは健介だよ」って。健さんも「選んだのは俺」と言っています。だから、誰の責任でもありません。

 新日本プロレスを辞めて、WJに行くのを選んだのは健さんですし、その時に相談されたのは私。それが間違いだったのか、そうじゃなかったのか。その答えって死ぬときにしか出てこないよねって思います。

 あのときはクモの子を散らすように、私たちのもとから去っていった方もいました。でも、そんな時でも応援してくれた人がいたのです。一番最初に「健介、大丈夫か? 食えてるか?」って電話をくれたのは、あの天龍源一郎さんでした。

 ※ 2003年3月に長州力を中心に旗揚げしたプロレス団体。04年8月に崩壊。