【デンジャラスクイーンの真実#28】佐々木健介と1995年に結婚した私は85年の入門からお世話になった全日本女子プロレスを離れました。理由も知りたいですよね? 今だから言いますけど、健さんと結婚したことでマサさん(※)との交流が生まれ、こんなアドバイスをくれたんです。

WCW女子王座をかけてメドゥーサ(手前)と対戦(97年6月)
WCW女子王座をかけてメドゥーサ(手前)と対戦(97年6月)

「チャコちゃん、海外とかで試合した方がいいよ。WCWという団体が米国にある。チャコちゃんはメキシコでもやっていたし、絶対に海外でやった方がいい。ブル(中野)ちゃんと一緒に、日本の女子のすごさを見せるべきだよ」

 それを聞いて「なるほど」。私の夢は何だろうと考えると、プロレスに入ったときはチャンピオンでした。でもベルトを巻くのがゴールじゃなかった。例えばチャンピオンになっても全く人気がない方もいますよね。じゃあ、真のチャンピオンって、ベルトって何だろうって。哲学的なんだけど頭の中で追及しちゃうんです。(入場の)扉を開けて一番「わー」って言われた人が真のチャンピオンなんだろうなって思ったとき、ベルトに興味がなくなっていたのも確かなんですよね。

 CMLLの一員としてロサンゼルスで試合したことがあり、海外に目を向けたいという自分もいて「WCWに行きたい」と思って行動に移し、96年12月に初代チャンピオン(WCW世界女子ヘビー級)のベルトを取ることができました。
 97年にはガイア・ジャパンに入団しました。WCWの試合は時々でしたので、アメリカばかりじゃなく、メキシコに行ってもよかったのですが「女猪木」と呼ばれたのは何でだろうって考えたことがあったのです。

 それはやっぱり「お騒がせ」かなって。驚かせるのが好きだったから「女猪木」と呼ばれたんだろうなって。猪木さんに大変失礼だし、猪木さんのファンからすれば「何を言ってるんだ」と思われるかもしれないですけど、当時は結婚とか騒がすことばかりしていたから、と考えたのです。

 例えば、神取忍と殴り合いの試合をした。次に何をしたらお客さんが喜ぶんだろう、何を見たいんだろうと思った時、神取と組んだら面白いと考えて、実現したのが1994年3月27日の横浜アリーナ大会(北斗&神取VSブル中野&アジャコング)でした。

 そのときも、次は何をすればビックリするんだろうと考えました。それなら犬猿の仲と言われていたチコさん(長与千種)の団体に、ただ上がるだけじゃなくて入団したらどうだろうって。ちょうどチコさんから連絡をもらっていたタイミングでした。それがガイアに入団した経緯です。

 ※“獄門鬼”の異名を取ったプロレスラー、マサ斎藤さん。健介の師匠で健介オフィスのアドバイザーも務めた。