【デンジャラスクイーンの真実#29】1996年9月16日、私はチコさん(長与千種)が95年4月に旗揚げしたガイア・ジャパンの後楽園ホール大会で参戦を表明しました。正式に入団し、11月に団体初の海外遠征となったシンガポール大会から所属選手として試合に出場することになりますが、98年3月から欠場に入ります。

ガイアマットで北斗(左)は長与と抗争(2000年2月)
ガイアマットで北斗(左)は長与と抗争(2000年2月)

 3月15日のクラブチッタ川崎大会は、ワンデーのタッグトーナメントが行われた日でした。実は、その少し前から体に異変を感じていたのです。体調不良ではないのですが、痩せているのにでん部が大きくなったなと。スポーツ選手だから体の変わりように敏感で、ふくよかになってきているのがわかりました。

「あれ? もしかして」。妊娠検査薬で反応が出ました。今では考えられませんが、おなかに赤ちゃんがいるのに気づかずに試合をしていたのです。これも今だから言えますが…健之介、よく生きていたと思います。

 私の中では、子供ができたらプロレスを辞める選択でいいと思っていました。そこで川崎大会であいさつをしてリングを下りるつもりだったのですが「長い間応援してくださってありがとうございました」と言わなかったのです。「辞める」とは言わずに「すみません、おなかに子供ができました」という報告になってしまいまして…。

 案の定、マスコミさんに書かれている記事を見たら、引退ではなく「休業」になっていました。すると、今みたいにSNSのコメントとかではなく、ハガキで「元気な赤ちゃんを産んでください」「待ってます」などのメッセージがたくさん届きました。それを見て「あれ、このお騒がせ女を待ってる人たちがいる」って思ったのです。

 以前は女性が結婚したら寿退社が当たり前でしたよね。ですが、98年ごろは、女子が結婚後も働き、出産後も仕事を続ける流れができ、日本中が熱くなっていました。私が結婚してプロレスを続けるという選択をしたとき、もちろん、批判的な声もありました。

 でも、オリンピック選手たちは出産後も自分さえ練習すればメダルを取ることもできるじゃないですか。なぜ、女子プロレスラーは子供を産んでリングに上がってはいけないのだろうっていう疑念が私の中に生まれていました。

 私のプロレス人生なんだから、自分が区切りをつけよう。誰にも決められるものではない。リングに「戻る」とも「戻らない」とも言ってないから、このまま試合をしてパイオニアになるのもありかなと。だったら、私がやってやりましょう!となったのです。健之介を出産した私は翌年、リングに復帰。日本初のママさんレスラーになりました。