【デンジャラスクイーンの真実#18】1988年にリングネームを北斗晶にした私は、同期のみなみ鈴香とのタッグ「海狼(マリンウルフ)」を結成。89年にCDデビューも果たしましたが、ブレークすることなく解散しました。
全日本女子プロレスは昭和61年組(86年)のアジャコングとバイソン木村が、ユニバーサルプロレスにゲスト出演。男子プロレスのファンを引っ張ってきてくれました。当時「ふざけんな、テメーラ!」なんて言ってましたが、ありがたやありがたやですね。
このころの私はヒールになりたいと思っていました。会社はメキシコ「CMLL」と提携を結んだのですが、これはたぶんメキシコに行きたかったロッシーさん(※)の趣味ですよ(笑い)。
最初にメキシコに行ったのが山田敏代と井上京子。井上はマニアと呼べるくらいプロレスが好きで、男子プロレスもよく見てるし、いろいろな技も研究している子でした。だからすごい選手になって帰ってくるだろうと思っていたけど、3か月後に帰ってきたら、山田が相手の控室に乗り込むみたいなこともあったようで…。ルールも違うし血の気も多かったころですしね。
次に行ったのが下田美馬と私の付け人、吉田万里子でした。ある日、私はブルーシートの屋外大会で会場設営が終わって空を見ていると、ちょうど飛行機が飛んでいて近くに松永高司会長がいました。その日は下田と吉田の出発日だったので「あの飛行機に吉田と下田が乗ってるかもしれないですね。付け人が3か月いないと寂しいですよ」と言ったんです。
そうしたら会長が「何で? 行ってくれていいんだよ。日本にいても客を呼べない人が行くんだから、帰ってこなくていいんだよ」って。私は「ひどい」って言って笑うしかありません。3か月後に吉田が帰国しましたが、その話は言えませんでした。
それからしばらくして、会長室に呼ばれた私は「北斗、次は三田(英津子)を連れてメキシコに行ってこい」って…。ギャグみたいな話ですよね。私が「吉田と下田が行くときに『日本にいても客を呼べない人を行かせる』と言ったじゃないですか」と言ったら「俺、そんなこと言った?」って…。私は会長が好きでした。好きでしたが、さすがにその瞬間は辞めようと思いましたよ。
私は会社にとっていらないレスラーなんだなって。うだつが上がらない、客を呼べない、いらないレスラーなんだなって。確かに当時は三田もそうでした。はっきり言って島流しだと思ったのです。もういいや、最後に海外旅行に行ったつもりで観光して帰ってくればいいやって。こんな調子で初のメキシコ遠征に向かったのですが――。
※ 全女の小川宏広報担当。現スターダムのロッシー小川エグゼクティブプロデューサー。













